ウィスキーが結ぶスコットランドと日本 NHK「マッサン」絶好調
NHK連続テレビ小説「マッサン」の週間平均視聴率が放送開始から3週連続で20%を超えたそうだ。
今年6月、ニッカウヰスキーの『竹鶴ピュアモルト』など8つのウィスキーが世界的な酒類品評会「インターナショナル・スピリッツ・チャレンジ2014」で金賞を受賞した。ニッカブランドのウィスキーが金賞を受賞するのはこれで7年連続だ。
同社創業者、竹鶴政孝の名を冠した『竹鶴ピュアモルト』は濃密な香りと深い余韻が特長だ。琥珀色の味わいの裏に「日本ウィスキーの父と母」と呼ばれる政孝とスコットランド出身の妻リタの愛と信念のドラマがあった。
『マッサン』は政孝がリタから呼ばれていた愛称で、連続TV小説の新シリーズは2人の実話を下敷きにしている。
ニッカウヰスキーのホームページにある『マッサンとリタの物語』やスコットランドのニュースサイト『スコットランド・ナウ』で紹介された記事から2人のドラマを紹介しよう。
日本で本格的なウィスキーを造る
「酒はな、一度死んだ米をこうしてまた生き返らせてつくるもんじゃ」
広島県の造り酒屋に生まれた政孝は父にこう教えられて育った。大阪市の摂津酒造に入社し、社長からスコットランド行きを命じられる。
「日本で本格的ウィスキーを造るんだ」という情熱を胸に政孝は1918年、万年筆を胸に単身、スコットランドに渡る。
翌19年夏、グラスゴー大学でウィルソン教授の指導を受け、辞書を引き引き、ネットルトンの大著『ウィスキー並びに酒精製造法』を何度も読み返した。
しかし、受講できたのは有機化学で、ウィスキー造りの専門講座は同大学にはなかった。しかも、座学だけとあっては本場のスコッチウィスキーの造り方は学べない。
君の鼻は素晴らしい
ハイランド地方の蒸溜所に片っ端から手紙を書き、受け入れてくれたロングモーン蒸溜所で政孝は工場実習を積む。工場長は「ミスター・タケツル、君の鼻は素晴らしい。ウィスキーづくりに鼻は大切だ」とほめた。
しかし、蒸留器にはなかなか触らしてもらえない。政孝の熱心さに動かされた老職工が蒸留器の操作を手ほどきしてくれた。そのとき、政孝はウィスキー造りの心に触れた。
「ウィスキーを決定するのは技術だけでなく、大麦、水などの自然であり、その自然を尊び、酒をつくり上げる人間の心、そして熟成させる時である」
政孝はリタの弟、ラムゼイに柔術を教えていた。リタは第一次世界大戦で婚約者を失い、医師だった父を心臓発作で亡くした。母は家計をやりくりするため、下宿人を募集した。
それに応募したのが政孝だった。グラスゴー近くで暮らすリタの縁者、ハリー・ホーガンさん(64)は『スコットランド・ナウ』にこう語っている。
「リタは特筆すべき女性でした。しかし、驚くべきことにスコットランドで彼女のことを知っている人はほとんどいません」
「日本ではリタと政孝は伝説的な地位にあり、日本ウィスキーの母と父として祝福されています。日本のウィスキーがスコッチウィスキーを打ち負かしているのは2人のお陰です」
「私たちは日本に行くべきです」
政孝はリタにプロポーズした。「君が望むなら、ここに留まる覚悟でいるんだ」。しかし、リタはこう応じた。「いいえ、あなたには大望があるはずよ。私たちは日本に行くべきです」
1920年1月、妹ルーシーの立ち会いで2人は結婚した。リタが日本に行くことに家族は猛反対した。政孝26歳、リタ24歳だった。
ヘーゼルバーン蒸溜所で実習の仕上げをした政孝と、リタは20年秋、日本郵船の伏見丸で日本に向かった。摂津酒造に戻った政孝は自分のウィスキー醸造計画書が頓挫したため、退社する。
日本初の本格ウィスキー
リタは家計を助けるため、子供や婦人に英語を教える。寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎に請われ、23年、政孝は寿屋に入社。大阪・島本町山崎の工場で29年、日本初の本格ウィスキーを製造する。
関西弁まじりに「おめでとうさん」と祝福するリタ。政孝は感謝を込めてリタの手に接吻した。
ウィスキー造りを極めるため、政孝は34年、北海道積丹半島の付け根、余市に「大日本果汁株式会社」(現ニッカウヰスキー)を設立。ヘザーの花こそ咲いていないものの、風土はスコットランドそのものだった。
政孝、不惑の40歳。妥協を許さない政孝は借金に借金を重ねる。米国や英国との関係が悪くなり、スコッチウィスキーの輸入が中止される。政孝には追い風だった。40年、「ニッカウヰスキー」が誕生し、初めて利益を出す。
戦争と戦後
しかし、日本は米国や英国と戦争に突入。リタが日本の情報を敵国に通報していることを疑う特高警察に尾行され、自宅には石が投げつけられる。
漬け物や塩辛を自分でつくるなど懸命に日本文化に溶け込もうと努力してきたリタは「日本人なのに、どうして尾行されるの。この眼と髪を黒くして、鼻を低くしたい」と涙をこぼした。
戦争が終わってからも苦労の連続だった。三級ウィスキー全盛の時代にも、政孝は品質にこだわり続ける。そのこだわりが本物のウィスキーを生み出した。
政孝は「万年筆1本でわが国のウィスキーの秘密を盗んでいった青年がいた」(英首相ヒューム)と賞賛されている。リタは本格ウィスキーを造るため単身スコットランドまでやってきた政孝を放っておけなかったのだろう。
政孝とリタは余市蒸溜所を見下ろす墓地に眠っている。
(おわり)