木村義雄14世名人の戸籍上の生年月日は「1905年2月21日」だけれど、実際はもっと早く生まれていた
筆者の手元にはいま『週刊将棋』(1984年-2016年)の創刊号から休刊号までがほぼ揃っています。
これは桐谷広人七段から受け継いだ大変貴重な資料で、後進からすれば、宝の山というよりありません。それをひもとくうちに、いくつもの発見があります。
1984年。『週刊将棋』誌には「木村義雄14世名人に聞く」という連載インタビューが掲載されていました。
「これはもう言ってもいいんだろうと思うけれども」
「そのとき表面には出なかった話がある」
そんな前置きととも語られる秘話のいくつかは、勉強不足の筆者にとっては初見で、個人的に新しい事実を知ることができました。そちらはまた項を改めて書きたいと思います。
さて記事冒頭、木村14世名人は次のように語っています。
戸籍上の生年月日は明治38年(1905年)2月21日生まれ。しかし実際にはその8~9か月前、明治37年(1904年)5月に生まれていた。それが木村14世名人の証言です。
最晩年の打ち明け話だったのでしょうか。筆者が調べた限りでは、それまでの自伝などではおそらく記されていなかった、あるいは意図的にぼやかされていた話ではないかと推測されます。
戸籍上の生年月日と実際の生まれが大きく違うのはなぜか。そうしたことは可能なのか。それは「繰り上げ長男」となったことと関連するのか。などは筆者にはわかりません。
ともかくも、木村名人が現役中、いつのまにか、なぜか年齢が若返っていた、という同時代の人々の証言の謎を解く鍵は、このあたりにありそうです。
『週刊将棋』に掲載されている略歴は次の通りです。
この「実際は明治37年5月」という点について、どれだけ後世に伝わっているのか。『週刊将棋』にはこのインタビュー記事、および1986年11月17日に木村14世名人が亡くなったときの追悼記事には掲載されています。しかし他の文献、たとえば『将棋世界』1987年1月号の追悼記事などには掲載されていません。
現在の将棋史では依然、木村14世名人の生年月日は戸籍上のものです。それは今後も変わらないことでしょう。その上で、早熟な昇段記録や、名人就位、引退など節目の年齢を現代の棋士と比較する際には、いっそう注意を伴う必要がありそうです。
木村14世名人が亡くなった11月17日は「将棋の日」。現在の新暦との違いはありますが、旧暦の江戸時代、御城将棋がおこなわれていた日でした。
戸籍上の生年月日を基にすれば、木村14世名人は81歳で亡くなったことになります。81歳は将棋盤のます目と同じ数。加藤治郎名誉九段(1910-96)はそれを「盤寿」と名づけ、近年、将棋界で定着しました。
1904年5月生まれならば、木村14世名人の享年は満年齢で82歳、数えで83歳となります。実際には盤寿よりも長生きした、というのであればもちろん、めでたいことでしょう。