【京都市北区】玉の輿の語源 桂昌院物語 稀代の悪女ではなかった? 京の三奇祭の一つ、やすらい祭の神社
ちょうど臨済宗大本山・大徳寺の西側にあたる今宮門前通りを2023年1月13日の早朝、歩いてみました。北大路通りから朱塗りの鳥居をくぐって、土塀の奥に竹林がある風情ある大徳寺の西側を横目に、突き当りが今宮神社になります。
かつての平安京以来、昔の人々は、疫神や政治的に失脚し亡くなった人の霊などが、災いと結びつけられて「御霊」(ごりょう)と恐れられました。疫病や厄災が起こると、原因である御霊を鎮めるために祭礼が行われたのです。正暦5年(994)に疫神の為の神輿を設え船岡山に安置し神慮を慰め疫病鎮めを祈りました。数年経ずして、長保3年(1001)に疫神を船岡山から現在の地に遷し奉り祭礼が執り行われました。以上を紫野と呼ばれる地域で行なわれたことから紫野御霊会と呼ばれ、これが今宮神社の創祀となります。(今宮神社HPより)
一層鮮やかな朱塗りの楼門をくぐると様々な摂社がありました。織姫社の祭神は、栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)。日本神話に登場する女神です。七夕伝説の織姫に機織(はたおり)を教えた神ともいわれ、織物業者らの崇敬を受けています。西陣織業者が創始した社で、社前にある献灯碑は、織物を織るとき使われる杼(ひ)の形をしています。
本殿とのあいだに、桂昌院(玉)のレリーフがありました。徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院(けいしょういん)は、西陣の八百屋に生まれ、その名は「お玉さん」と伝えられます。三代将軍家光の側室となり、後に将軍の生母として従一位という女性として最高位にまで昇り詰めた事から「玉の輿」の語源ともされています。
桂昌院は故郷である西陣の今宮神社の再興にも力を尽くし、社領百石を寄進して社殿を修復、京の三奇祭の一つ、やすらい祭の四基の祭鉾も新たに設えられ今宮の祭礼は賑わいを極めたと云われています。
徳川幕府五代将軍の徳川綱吉は、生類憐みの令などの悪法を発し、とかく悪将軍と描かれることが多かったのですが、実は同法律は、日本初の動物愛護令ともいわれ、処分の実態はなかったとも言われます。後の六代将軍家宣を引き立たせるために側近の新井白石が行った演出だとも。
当の綱吉は、各大名に儒教の講義を行うなど、名将軍だったともいわれます。柳沢吉保にいたっても、地元川越藩に赴任した際、荒れ野原だった土地を開拓して、領地の収入を充実させたり、庶民のための寺社(多聞院毘沙門堂)も建立するなど、民から慕われる名君だったといわれます。
また僧隆光も実は名僧で、将軍綱吉・桂昌院に協力して、戦乱によって失われていた大寺院の伽藍を復興しました。東大寺の大仏殿再興に協力を惜しまなかったのも隆光です。つまり、散財とされてきた寺社仏閣への投資も、雇用を生み出し、今で言う公共事業ではなかったかとの説もあります。お玉さんこと桂昌院も稀代の悪女ではなかったのかも知れませんね!
さて元禄仕様の東門を出ると、参道に向かいあって立っている二軒のあぶり餅のお店はもう有名ですね。「一和」さんは「元祖正本家」を名乗り、「かざりや」さんは「本家根元」を名乗っておられます。原料はお餅、きな粉、白味噌と砂糖を合わせたたれ。最も味に影響のある白味噌は「一和」さんが本田味噌本店、一方の「かざりや」さんが石野味噌。どちらも京都では有名な白味噌のお店だとか。「本家本元」争いはいつまで続くのでしょうか? でもそれが話題で賑わっているのでいいのかも知れません。
いろいろと話題の尽きない今宮神社へぜひ訪れて見てください!
紫野 今宮神社(外部リンク) 京都市北区紫野今宮町21 075-491-0082