樋口尚文の千夜千本 第1夜 「風立ちぬ」(宮崎駿監督)
宮崎駿のイノセント・ガーデン
宮崎駿も黒澤明も円谷英二も”飛ぶ夢”を見た。
だからかもしれないが、その夢に集大成的にこだわった本作は、どこか黒澤明のようであり円谷英二のようである。
樋口真嗣監督が看破したように、これはさながら生涯飛行機に執着した円谷英二の幻の企画「日本ヒコーキ野郎」の映像化とも言えそうな企画だ。主人公の二郎は、実際にも飛行機で空を舞うし、夢のなかでは憧れの師カプローニとともに始終宙を浮遊している。
物議を醸した4分に及ぶ予告篇では、今どきのお客さんが好みそうなセンチメンタルな雰囲気(いわゆる”泣ける映画”的な)が張り出していたが、実際の映画は幸いにもそういうものではない。ひたすらに”飛ぶ夢”に憑かれた二郎の幼少から青年に至る季節を、涼しいまなざしで描き続ける。職業的声優でない庵野秀明氏の優しくも芯のある声が、この二郎のものづくりへの傾倒を静かに語るタッチにいたくなじんでいる。
青年の技術への無垢なる理想は、零戦というかたちで戦争の道具に転用されるわけだが、そのことについても作品はパセティックになったり、肩いからせて怒りや批判を表明するわけではない。そういう静謐なるまなざしは、さーっと画面を移動してきてざわめかせる雨や風の驚嘆すべき描写ともども、もののあはれを感じさせるばかりだ。その知性的な作り手の立ち位置が、観ていてひじょうに快く、緩慢に感動へと導いてくれそうであった。
が、その二郎のヒコーキ野郎のシークエンスの(いつまでも続いてほしいような)素晴らしさが、ヒロインの菜穂子との悲恋のくだりにさしかかると俄然失速する。なぜなら、この菜穂子という女性がさすがに現実感がないからである。試写にいあわせた某紙の女性記者は「あれは男性の希望や妄想から出来あがったような都合よすぎる女性ですよ」と言っていたが、確かに女性をああいうものとして考える男性は余りにもおぼこいかもしれない。生身の女性はもっとえぐいし、ずるいし、獰猛ですらあるかもしれず、しかしそこがまた人として可愛かったりもするわけだが、オタク青年・二郎のいきいきとした描きっぷりに対して、菜穂子はいかにも作られた感じではある。
ただ、それは今度に限ったことではなく、宮崎アニメにおける女性はずっとこんなおぼこい感じで美化されてきた。過去の作品では物語の舞台そのものが架空の世界であったりするから、女性像の美化された模造感が気にならなかっただけだろう。「風立ちぬ」は、夢幻的な箇所も多いが基本の軸足が現実世界に置かれているので、その作られた感じが過度に気になったに過ぎない。この作品に黒澤明を感じたのも実はそこかもしれない。あんなに男どもが弾けている黒澤映画にあって、女性の描き方はあまりにもおぼこい。終生、それはもう思春期の少年のように女性に対してはおぼこい感じであった。
だが、こうなってくると黒澤明の場合のように、宮崎駿の女性に対するおぼこさも、もはや作家の色であろう。つまり、宮崎アニメに生々しい女性像などを期待するのはおかど違いのないものねだりということである。きっと観方としてはそれが正解だという気がする。お客さんによってはそういう女性像にじゃぶじゃぶ泣くのかもしれないし、さすがに嘘くさくて気恥しくなるかもしれない。でも別に宮崎駿はそういう女性像をお客におもねる糖衣にしようなんて気持ちはさらさらなくて、本気でそんなかたちを選択しているはずである。
老人は児童に回帰するという俗説そのままに、本作は何から何まで(もはや善し悪しを超えて)宮崎駿が好きなもの、好きな世界を存分に取り揃えたものであるに違いない。ちょうど黒澤の「まあだだよ」やジョン・ヒューストンの「ダブリン市民」などがそうであるように。