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死去した韓国の盧泰愚元大統領の「功罪」 光と影を追う

辺真一ジャーナリスト・コリア・レポート編集長
南北国連同時加盟記念テレフォンカード(筆者が作成)

 韓国の盧泰愚(ノ・テウ)元大統領が26日に死去した。

 政治家には誰にも光と影、功罪があるが、軍人出身の盧元大統領ほどそのコントラストが鮮明な人はいない。

 影、即ち罪の部分では何と言っても軍人時代に陸軍士官学校同期で同じ慶尚道出身の全斗煥(チョン・ドファン)元大統領らと共に1979年12月12日に粛軍クーデターを引き起こしたことであろう。それも、陸軍参謀総長ら軍首脳らを逮捕するなど上意下達の軍の規律を無視した下剋上であった。

 長期政権の座(1961年―1978年)にあった陸士先輩の独裁者・朴正煕(パク・チョンヒ)大統領が側近に暗殺されたことで民主化の波を恐れた全氏や盧氏ら陸士11期生を中心としたクーデター首謀者らは戒厳令を施行し、文民政治の実現を求めていた金大中(キム・デジュン)、金泳三(キム・ヨンサム)、金鍾泌(キム・ジョンピル)氏ら有力政治家らの政治活動を禁じ、クーデター反対の民主化デモを武力で鎮圧した。国民の軍と呼ばれている「国軍」が全羅南道・光州で国民に銃口を向け、発砲したのは後にも先にもこれが初めてであった。

 もう一つの罪としては、大統領時代(1988年2月―1993年2月)の不正蓄財が挙げられる。

 盧氏も前任者の全氏同様に天文学的な数字の不正蓄財を行っていた。大統領退任後の1996年に任期中の不正蓄財の罪で実刑判決を受けたが、課せられた追徴金が2628億ウォン(約277億円)だったことからその不正の大きさがわかる。

 収賄による不正資金の一例をあげると、盧泰愚政権は在任中に約319億ドルに上る武器を米国などから購入したが、そのうちコミッションとして14%(約483万ドル)も懐に入れていた。ちなみに同罪の全氏への追徴金は2200億ウォン(約232億円)だった。

 盧氏の光の部分、即ち功で真っ先に挙げられるのは全斗煥大統領を説得し、大統領選挙を国民投票による直接選挙に戻し、軍政から民政に移行させたことだ。朴正煕政権から全斗煥政権までは政権与党が多数を占める国会議員らによる間接選挙だったことを考えると画期的な出来事であった。

 また、結社の自由から言論の自由、海外渡航の自由、組合活動にいたるまで国民の声に耳を貸し、民主化の道を歩んだことも評価されてしかるべきだ。換言するならば、盧政権は次の金泳三文民政権にバトンタッチするまでのリリーフの役割を担ったことだ。

 大統領に就任した年の1988年に開催されたソウル五輪の成功は盧氏の業績の一つである。

 ソウル五輪前の二つのオリンピックは冷戦下の政治状況をそのまま反映し、1980年のモスクワ五輪はソ連のアフガン侵攻に抗議した西側諸国がボイコットし、1984年のロサンゼルス五輪は東欧諸国がお返しとばかりボイコットし、いずれも片肺大会に終わった。

 しかし、ソウル五輪はキューバやエチオピアなど北朝鮮と友好関係にあった数か国が北朝鮮に同調し、ボイコットしただけでソ連(現ロシア)をはじめ東欧共産国、それに中国も参加したことで成功裏に終わった。

 ソウル五輪成功の裏には盧泰愚政権の「北方外交」があった。「北方外交」は伝統的反共国家である韓国を共産圏との交流に道を開く大きな一歩となり、必然的に韓国を「開かれた、普通の国」に導いた。

 「北方外交」により韓国はハンガリーを皮切りに東欧諸国と次々と国交を樹立し、最後は「共産圏」の盟主であり、北朝鮮の後ろ盾となっていたソ連のゴルバチョフ大統領との首脳会談を1990年に電撃的に成功させ、同年9月には国交を結ぶなど大きな外交成果を上げた。加えてもう一つの北朝鮮の最大の同盟国である中国とも1992年に念願の国交樹立を果たした。

 また、ミャンマー訪問中の全斗煥大統領の暗殺を企図した「ラングーン事件」(1983年)や大韓航空機爆破事件(1987年)、さらにはソウル五輪開催で緊張が激化していた北朝鮮との関係修復にも乗り出し、一時的にせよ朝鮮半島でデタントをもたらしたことも「功」の一つとして評価される。

 南北民間交流の実現(1990年5月)、南北史上初の首相会談(1990年10月)、千葉で開催された世界卓球選手権大会で史上初の南北統一チームの結成(1991年4月)、北朝鮮との南北国連同時加盟(1991年9月)、北朝鮮が要求していた韓国からの核兵器の撤廃を行った「核不在宣言」(1991年12月)、そして金達玄(キム・ダルヒョン)副総理の訪韓(1992年7月)の実現など数々の業績がある。

 余談だが、あえてもう一つ「功」を付け足すならば、反全斗煥の世論に押されていたとはいえ、在任中に前任の全斗煥氏を山寺に追放する措置を取ったことも多くの国民の印象に残っている。

 盧氏はクーデター前も後も常に全氏の陰に隠れていた。終世No.2だと思われていた盧氏だが、トップに立ったことで自分をもっと光り輝かせるためには「影」が必要だったのかもしれない。その影こそが前大統領の全斗煥氏だった。退任後の身の安全のため戦友でもある「同期の桜」を後継者に指名したのにもかかわらず隠遁生活を強いられるとは全氏にとっては予想外で、不本意なことであったはずだ。

 最後に日本との関係だが、盧政権と日本との関係は決して悪くはなかった。むしろ韓国の歴代大統領の中では盧氏は「親日」の部類に入るのではないだろうか。

 盧氏は大統領就任から2年目の1990年5月に来日し、日本記者クラブで「過去が現在と未来を縛る足枷であってはならない。我々すべてが、勇気と信念によってそれを断ち切らねばならない。過ぎた日々の陰を消し、過去の残滓は除かねばならない。新しい世紀を迎えようとしている今、我々両国はアジア・太平洋における最も親密なパートナーであらねばならない」と、過去を断ち切り、日本とは未来志向の姿勢で臨む意向を表明していた。

 そして、翌6月に来日し、韓国の大統領としては初めて日本の国会で演説した際には「我々は国家を守ることができなかった自らを反省するのみであり、過去を振りかえって誰かを咎めたり、恨んだりはしない」と発言し、日本では高い評価を受けた。

 タイミング悪く、翌年の1991年8月に元慰安婦の一人が「監禁され、強姦され、移動するときは軍服を着せられていた」と初めて名乗り出たことで「従軍慰安婦問題」が日韓の懸案として浮上したことや1992年に開催された第6回国際連合地名標準化会議において国際的に認知されている日本海(Sea of Japan)の呼称問題を巡って対立したことでその後の日韓関係は盧氏の思い通りにはいかなかった。

 盧氏は享年88歳で亡くなったが、1988年に開催されたソウル五輪は韓国では「88(パルパル)」五輪と呼ばれている。何か因縁めいたものを感じてならない。

(参考資料:韓国歴代大統領の「反日度」 1位~10位までのランキング)

ジャーナリスト・コリア・レポート編集長

東京生まれ。明治学院大学英文科卒、新聞記者を経て1982年朝鮮問題専門誌「コリア・レポート」創刊。86年 評論家活動。98年ラジオ「アジアニュース」キャスター。03年 沖縄大学客員教授、海上保安庁政策アドバイザー(~15年3月)を歴任。外国人特派員協会、日本ペンクラブ会員。「もしも南北統一したら」(最新著)をはじめ「表裏の朝鮮半島」「韓国人と上手につきあう法」「韓国経済ハンドブック」「北朝鮮100の新常識」「金正恩の北朝鮮と日本」「世界が一目置く日本人」「大統領を殺す国 韓国」「在日の涙」「北朝鮮と日本人」(アントニオ猪木との共著)「真赤な韓国」(武藤正敏元駐韓日本大使との共著)など著書25冊

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