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デビュー11年目でGⅠ初騎乗となるジョッキーの、今は亡き父とのエピソード

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
今週末の皐月賞がデビュー11年目でGⅠ初騎乗となる嶋田純次騎手

父の勧めで騎手になる

 今週末、中山競馬場で皐月賞(GⅠ、芝2000メートル)が行われる。ここに胸を膨らませて騎乗するのが嶋田純次騎手。デビュー11年目で28歳になったばかりの彼には「好結果を出したい」理由があった。

皐月賞ではアサマノイタズラに騎乗する嶋田
皐月賞ではアサマノイタズラに騎乗する嶋田

 1993年3月8日、埼玉県で生まれ、3歳上の兄と共に育てられた。幼少時はサッカーに興じ、小学校ではキャプテン、中学では地元のクラブチームに入り「Jリーガーを目指した」と言う。しかし、体が大きくならず、徐々に力の差を感じるようになっていった。そんな時、父の康一に言われた事があった。

 「父の実家は船橋だったので、埼玉からそこへ向かう途中、必ず競馬学校の前を通りました。そのつど父から『体が大きくならなかったらこの学校を受けると良い』と言われました」

 中学3年になっても体重は増えず、同級生とキック力に明らかな差がついため、Jリーガーを諦めた。すると、父に改めて競馬学校の見学を勧められた。そして実際に見学した後、受験した。すると難関を突破し合格した。

デビューしてまだ間もない頃の嶋田
デビューしてまだ間もない頃の嶋田

 乗馬未経験だったため、学校では苦戦したが必死に食らいついた。そして、何とか卒業すると、2011年、美浦・手塚貴久厩舎からデビューした。

 「手塚先生は厳しい反面、優しくて、デビューに合わせて良い馬を用意してくださいました」

 3月5日、中山でデビュー。第1レースで自厩舎のワイズアンドクールに騎乗した。

 「緊張したけど好スタートを切れたので前へ行くと、減量が活きてそのまま逃げ切れました」

 初騎乗初勝利だった。

 「チャンスのある馬に乗せてくださった先生やオーナーのお陰です」

「いつも助けてくださる」と嶋田が言う師匠の手塚貴久調教師
「いつも助けてくださる」と嶋田が言う師匠の手塚貴久調教師

苦戦続きの時に助けてくれた人達

 前途洋々の船出だったが、翌週には思わぬアクシデントに見舞われた。東日本大震災。競馬が中止になった。その後もしばらくは関西圏での競馬を余儀なくされ、新人で人脈もない嶋田にとっては厳しい環境が続いた。それでも1年目は18勝をあげたが、2年目の春には腎臓と肝臓を傷めるほどの落馬に見舞われた。その後も減量がなくなるタイミングで大怪我を負った。戻って来た時には減量の特典がなくなっていたため乗り鞍が激減。当然、成績も急降下。最初の3年はいずれも20勝前後の成績を残したが、4年目は5か月が過ぎても1つも勝てなかった。

 「怪我を言い訳にはしたくありませんでした。自分の技術の問題だと考え、自分なりに努力を続けました」

 しかし、苦しかったのは事実だった。そんな時、モチベーションとなったのは……。

 「助けてくださる人がいたし、そういった方が喜んでくれるのを見ると、辞めようとは思いませんでした」

 助けてくれる人の1人に、ある馬主の名を挙げた。13年に桜花賞を勝ったアユサンでも知られる星野壽市オーナーだった。

 「4年目は結局6月に勝ったダークサイドが唯一の勝ち鞍に終わったのですが、それが星野オーナーの馬でした」

全く勝てなくなった時も乗せてくれたのはアユサンで知られる星野壽市オーナーだった
全く勝てなくなった時も乗せてくれたのはアユサンで知られる星野壽市オーナーだった

父を襲った病魔

 更に2年後の16年、今度はプライベートで思いもかけない事態に見舞われた。当時まだ49歳の父・康一が体調を崩したのだ。

 「診てもらったところ、癌で『もう長くない』と言われました」

 ショックだったが、この時も助けてくれる人がいた。師匠の手塚だ。厩舎所属のままの嶋田だったが午後作業は免除。朝の調教だけ乗ったら「すぐに実家に帰りなさい」と言ってくれた。そのため嶋田はしばらくの間、父の下からトレセンや競馬場に通った。康一は入院し、手術をした。すると……。

 「成功しました。でも、すぐに転移して、また入退院を繰り返しました」

 翌17年3月8日。この日、24回目の誕生日を迎えた嶋田が調教に出かけようとすると、病床の父に声をかけられた。

 「『誕生日おめでとう』と言ってくれました」

 その翌日、容態が急変。康一は49歳という若さで帰らぬ人となった。

 「自分が今、騎手をやれているのは父のお陰。その父に僕はGⅠ騎乗する姿を見せる事が出来ていないのに、逝ってしまいました」

 ショックを引きずるように父の他界から半年以上、勝てない日が続いた。やっと勝てたのは11月19日。新馬戦で騎乗したのはロードライト。手塚厩舎の馬だった。

 「手塚先生は僕が苦しい時、いつも助けてくださいました」

父が他界し全く勝てなくなった嶋田が久しぶりに勝利したのが手塚厩舎のロードライトだった
父が他界し全く勝てなくなった嶋田が久しぶりに勝利したのが手塚厩舎のロードライトだった

GⅠ初騎乗で好結果を出して恩返しと報告を

 それから3年後の20年の秋。第一印象で「馬っぷりが良い」と感じたヴィクトワールピサの仔と出合った。星野オーナーで手塚厩舎のその馬が、アサマノイタズラだった。

 「厩舎にいた姉はスピードに優る感じだったのですが、こちらは距離が伸びて良いタイプだと思いました」

 12月、1800メートルの新馬戦では調教も動いていたため3番人気。チャンスがあるかと思われたが「調教と違い、上に向かって走るような感じで、勝負どころになってもギアが上がらず」(嶋田)敗れた。しかし今年初日、2000メートルの未勝利戦に出走すると「1回使われた事でしっかりと前へ向かって走り」(同)2着に4馬身差をつけて勝ち上がった。

 「持ったまま4コーナーを回れました。年明けに勝てるように先生が乗せてくださいました」

 続く昇級戦は更に延びて2200メートルの水仙賞。1番人気に推された。しかし、前半5ハロン通過65秒のスローペースに追い込み切れず4着に敗れた。

 「勝てると思ったけど構え過ぎて内から出られず、脚を余してしまいました」

 自分が能力を発揮させてあげられなかった騎乗ぶりに「乗り替わりを命じられても仕方ない」と思った。ところが、続くスプリングS(GⅡ)でも引き続き鞍上を任された。

 「またチャンスをもらえたので『勝たなくては!!』と思いました。3着までに入って皐月賞の権利を取るのではなくて、勝たなくてはいけないと思ったんです」

 勝つためには「馬の持ち味を出せるように強気に乗ろう」と心に決めて騎乗した。結果、ゴール前、1度は先頭に立った。最後にアタマだけ差されたが2着を確保した。

皐月賞の前哨戦スプリングSは惜敗の2着(ゼッケン6番)
皐月賞の前哨戦スプリングSは惜敗の2着(ゼッケン6番)

 「あとからレースを見直して『もう少し我慢出来たか?!』と反省しました。本番の出走権は取れたけど、勝てなかったので悔しかったです」

 そして、前走同様「乗り替わりを覚悟した」。ところが……。

 「通算100勝もしていないし、重賞勝ちもない僕をGⅠに乗せてくださる事になりました。今は、苦しい時にいつも助けてくださった手塚先生と星野オーナーに、少しでも恩返しをしたい気持ちでいっぱいです」

 デビュー11年目でのGⅠ初騎乗。母も兄も喜んでくれたが、長引く新型コロナ騒動で現地観戦の願いはかなわなかった。「スタンドの抽せんにハズレてしまったようです」と言う嶋田は、宣言するように続けた。

 「母と兄、そして父の墓前に良い報告が出来るよう、頑張ります!!」

スプリングSでのアサマノイタズラと嶋田
スプリングSでのアサマノイタズラと嶋田

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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