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あまりに背が小さかったが、大活躍した3人の武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 現代は栄養も良くなり、体格の良い人が増えた。しかし、かつては栄養の問題もあったのか、今より体格は良くなく、背が小さい武将もいた。そのうち大活躍した3人の武将を紹介することにしよう。

◎赤松満祐(1381~1441)

 赤松満祐は、室町幕府の侍所別当のほか、播磨など3ヵ国の守護を務めた。『赤松系図』によると、満祐は「三尺入道」と呼ばれていたという。つまり、満祐の身長は約90cmということになるが、これが史実か否かは確認のしようがない。

 満祐は嘉吉の乱で現職の将軍足利義教を謀殺したので、良くない評価をされた。満祐は気性が激しく、態度は横柄で、傲岸不遜な性格だったといわれている。普通に考えると、身長が約90cmということは考えられないので、後世になって想像で書かれた可能性がある。

◎山県昌景(1515?~1575)

 山県昌景は、武田信玄・勝頼父子に仕えた名将の一人である。諸史料によると、昌景は醜い容姿で、痩せていたといわれ、身長は130~140cmほどしかなかったと伝わる。しかし、いざ合戦になると、「信玄の小男出たり」と敵軍が恐れたという。

 むろん、昌景の身長がこんなに低かったのかどうかはたしかめる術はないが、「赤備え」を率い、敵が恐怖したのは事実であろう。天正3年(1575)の長篠合戦において、昌景は織田・徳川連合軍と戦い、一番に戦いを仕掛けたが戦死したのである。

◎豊臣秀吉(1537~1598)

 豊臣秀吉は、いうまでもなく天下人に上り詰めたことで知られている。秀吉は「猿」あるいは「はげ鼠」と呼ばれるなど、決して容姿がすぐれていたわけではない。フロイスの『日本史』によると、秀吉は自分の体格が良くなかったこと、醜かったことを自覚していたという。

 フロイスは秀吉の容貌について、「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と記している(『日本史』)。具体的な秀吉の身長の高さを記していないが、平均的な成人男子の身長よりは低かったのだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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