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【戦国こぼれ話】黒田官兵衛は豊臣秀吉が恐れた知恵者、智将だったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉は、黒田官兵衛を恐れていたのだろうか?(提供:アフロ)

 直木賞受賞作『黒牢城』では、荒木村重に幽閉された黒田官兵衛が重要な役割を果たしている。よく、官兵衛は戦国時代でも有数の知恵者、智将だったといわれているが、それは正しいのだろうか。

■官兵衛は「偉大なるナンバー2」!?

 ビジネス雑誌などを読むと、戦国武将を経営者や政治家になぞらえて評価する特集記事を見かける。もちろんナンバー1の人気者は、織田信長である。

 信長は革新者として捉えられ、「信長が現代に生きていたなら、きっと革新的な経営者(あるいは政治家)になったはず!」というのであるが、信長が革新者だっという評価は、今や学界では通用しない。むしろ、保守的な考えが強調されるくらいである。

 黒田官兵衛も人気が高く、上述した特集記事では、上位にランキングされる常連でもある。理由をごく簡単にいえば、「天下人(豊臣秀吉)も恐れた知恵者、智将」ということになろう。

 はたして、こうした官兵衛の評価は事実なのだろうか?

■官兵衛をめぐる史料

 官兵衛を高評価する二次史料は、『黒田家譜』を筆頭にして事欠かない。二次史料は後世に成立した史料であり、信憑性が劣るものも多い。

 特に、『黒田家譜』は福岡藩の黒田家が貝原益軒に命じて作らせたので、官兵衛の悪いことは一切書かれていない。ほかにも官兵衛を絶賛した二次史料は多い。以下、官兵衛にまつわる逸話を挙げておこう。

■数々の逸話

 天正10年(1582)6月、備中高松城(岡山市北区)を水攻めにした秀吉のもとに、「織田信長、本能寺で死す」の一報がもたらされた。すると、傍らにいた官兵衛が「ご運が巡ってきましたな」と秀吉の耳元で囁いたという。

 官兵衛の言葉は、「次は、秀吉様が天下を取る番ですよ」という意味である。その言葉を聞いた秀吉は、「油断ならない男だ」と恐れたという。

 それゆえ、官兵衛がいくら軍功を挙げても、天下を奪われるとまずいので、中央からほど遠い豊後中津(大分県中津市)にたった十数万石しか与えなかったというのである。

 また、あるとき秀吉は名立たる武将の前で、「次に天下を取るのは誰だと思うか?」と尋ねた。すると、諸将は「前田利家」、「徳川家康」などの名前を挙げた。

 発言を聞いたあと、秀吉は神妙な面持ちで「いや、次に天下を取るのはあの男だ!」といって、官兵衛を指さしたといわれている。この逸話も、秀吉が官兵衛を恐れた理由とされている。

■逸話は嘘

 実は、ここで取り上げた官兵衛の秀吉が恐れたという逸話は、根拠のないデタラメである。すべて二次史料に書かれたことで、たしかな史料による明確な根拠はない。

 そもそも官兵衛は、播磨の一土豪にすぎなかった。そんな官兵衛が豊後中津(大分県中津市)に十数万石を与えられたのは、大出世と考えてよいだろう。

 では、真相はどうかといえば、秀吉と官兵衛との間の確執が遠ざけられる原因だった。官兵衛はキリシタンだったが、秀吉はキリスト教の布教を禁止した。にもかかわらず、官兵衛は信仰を捨てず、あろうことかイエズス家の代弁者のようなこともした。

 また、文禄・慶長の役の際、官兵衛は現地で戦う武将の意を汲み、帰国して秀吉と面会して意見を伝えようとした。しかし、秀吉は「無断の帰国だ!」と激怒した。いったん秀吉は官兵衛を厳しく罰しようとしたが、これまでの功績に免じて許したという。 

■むすび

 戦国武将に関するおもしろおかしい話というのは、おおむね二次史料などによる創作である。実際の官兵衛は、ごく地味な存在だった。私たちが知る官兵衛の姿は、トンデモ歴史本やビジネス雑誌などによる誇張した姿なのだ。

【主要参考文献】

渡邊大門 『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社現代新書、2013年)

同『黒田官兵衛・長政の野望 ―もう一つの関ヶ原―』(角川選書、2013年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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