夢窓疎石が京都に残した4つの庭園
今日命日を迎えた夢窓疎石。夢窓疎石といえば室町初期に臨済宗を発展させて、幕府公認の宗派とし、五山の制を整えた偉大な宗教家という一面と、枯山水庭園を本格的に定着させた名作庭家という一面がある。
京都の観光目線でいえば、4つのみるべき名庭を残してくれたありがたい存在。その中でも際立ってよく紹介するのが、嵐山の天龍寺にある曹源池庭園ということになる。
天龍寺は、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した臨済宗「五山の制」第一位の寺院であり、最盛期には150もの塔頭寺院を傘下に収めた名刹である。その方丈庭園を作庭したのが、寺院の建立を尊氏に勧めた夢窓疎石であった。
まずこの庭園は何といっても「史跡及び特別名勝庭園」の第一号という肩書がつく。そもそも「特別名勝」だけでも全国に36件しか指定されていない。さらにそこに「史跡」が付加される、つまり庭園そのものが美しいだけなく、「歴史」を表しているという評価に他ならない。
その「歴史」と評されたのは、それまでの池泉式の庭園の中に、枯山水の技法を用いて、滝や水の流れを見事に表現することに成功したという部分だ。
曹源池庭園は、手前の岸こそ従来の貴族が好んだ州浜型の寝殿造庭園の形式をとっているが、対岸は武士が好んだ豪快かつ力強い石組を用いた枯山水庭園の形式を導入している。ここに貴族好みの庭園と、武士好みの庭園の融合が見事に具現化されているのだ。
実は夢窓疎石は同時期に別の寺院の庭園も並行して造営している。それが「苔寺」の通称で親しまれている西芳寺だ。天龍寺とともに世界文化遺産の指定を受けているが、その理由はやはり夢窓疎石が残した庭園に価値があるからだ。西芳寺の場合は下段に黄金池と呼ばれる池を中心とした池泉式庭園を配し、上段には荒々しい石組と土手の斜面を利用した枯山水庭園を造り上げている。
つまり西芳寺は2つの異なる手法の庭園を、切り離しつつ同時に成立させているということだ。もしかすると夢窓疎石は、西芳寺で実験的に距離を置いて枯山水を導入し、これに自信を得て天龍寺の庭園では池泉庭園と融合させたのではないだろうか。そんなことを想像しながら夢窓疎石が残した庭園をみるのもまた面白い。
おそらく夢窓疎石にとって、あるいはこの時代の禅僧にとって、作庭とはつまり修行であり、また修行の成果を表現したもので、宗教的行為そのものであった。とうことは、悟りの境地に近づくほどに、こうした理想の世界観を見事に表現することができるようになったのかもしれない。
残る2つの夢窓疎石の作庭した庭園は、等持院と南禅院である。等持院は足利家の菩提寺として足利尊氏によって創建され、現在は東側の庭が夢窓疎石時代とされており、西側の庭は中根金作氏によって再興されたものだ。
南禅院は南禅寺発祥の地、すなわち亀山天皇の母君の離宮であった場所に現存し、これもまた夢窓疎石が作庭したと伝わっており、こちらは深山幽谷を表すような奥行きのある池泉式の庭園となっている。
等持院と南禅寺は「伝夢窓疎石」の域を出ないという指摘もあるが、どちらも西芳寺に通じる雰囲気をまとっており、夢窓疎石の息吹を感じることができる。京都に残る4つの夢窓疎石の名庭、ぜひこの秋は巡ってみてほしい。