意外な捕虜の生活!第一次世界大戦で日本が捕虜にしたドイツ兵には給料と自由が与えられた?その理由とは
世界を巻き込み甚大な被害をもたらした「第一次世界大戦」。
この戦争に参加していた日本は5年間で約4,700人ものドイツ兵を捕虜(俘虜)として捕獲し、国内にある収容所へ連行しました。
今回は、坂東俘虜収容所に連行されたドイツ兵捕虜と日本人の間に生まれた「絆の物語」を紹介します。
世界を巻き込んだ大戦
1914年、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)と三国協商(イギリス・フランス・ロシア)の間で世界を巻き込んだ大きな戦争が勃発。
この戦争は「第一次世界大戦」とよばれ、世界中で約3700万人もの被害者を出した悲惨なものでした。
当時の日本は日英同盟を理由に三国協商側として戦争に参加し、ドイツを含めた敵国の軍兵を捕虜として国内で収容しています。
その捕虜のなかには、今回紹介する坂東俘虜収容所に連行されたドイツ兵も含まれていました。
坂東俘虜収容所
捕虜は人質でもあるため、基本的には人権のない監禁生活を送ることが一般的です。
しかし、徳島県の鳴門市にある「坂東俘虜収容所」の捕虜には、最低限の人権や自由が与えられていたといいます。
坂東俘虜収容所の敷地内にはドイツ兵が生活する兵舎のほかに、図書館や運動場など合計26棟の施設が設けられており、自由時間にはサッカーや音楽など好きなことをして遊ぶことが許さていました。
また、捕虜は収容所の日課である労働を行えば月給が与えられ、お酒やお菓子を買うことができたそうです。
ちなみに捕虜の月給は、当時の日本軍人の月給に等しいものでした。
坂東俘虜収容所の周辺に住む市民はドイツ兵に対して親しみを込めて「ドイツさん」と呼び、ドイツ兵は市民の農作業を手伝うなど、お互いに共生していたというから驚きます。
好待遇の理由
捕虜に人権を与えたのはなぜか。それには、当時の坂東俘虜収容所所長・松江豊寿大佐の道徳的な思考に要因がありました。
彼は「武士の情け。たとえ敵であったとしても、国のために命を懸けて戦った勇猛な戦士である」として、捕虜を1人の人間として尊重したのです。
坂東捕虜収容所とは車で約30分ほど離れた場所にある「旧・松江邸の跡地(徳島市の新町川水際公園付近)」には石碑「武士の情け」が設置され、現代にも続く「日独親善」の立役者として松江豊寿大佐の功績が残されています。
そして、第一次世界大戦の終戦後には、徐々に捕虜も解放。自国へ帰還したドイツ兵は日本の「捕虜に対する扱い」を称賛したそうです。
道徳的な対応がもたらした後世への影響
松江豊寿大佐の人道的な扱いに感謝したドイツ兵捕虜は、アジア初となるベートーヴェン「第九交響曲」を全曲演奏。現在、日本での「第九のルーツ」となっており、日独の親交の深さを表しています。
また、ドイツ兵捕虜から技術を継承したパン屋さんは現在も営業中です。
ほかにも、鳴門市にあるドイツ館では、当時の背景や捕虜の生活様式を再現した模型などが見学できます。