なぜグローバルダイニングは「通常営業」を続けるのか【長谷川耕造×倉重公太朗】第1回
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今回のゲストは、飲食チェーン「グローバルダイニング」の社長、長谷川耕造さんです。彼は一代で従業員600人を率いる会社を築き上げました。コロナ禍では都の「休業要請」に応じず、改正特別措置法に基づく飲食店の営業時間短縮命令は「違憲」だとして、行政訴訟を起こしています。この対談では、長谷川さんがどうしてその決断に至ったのか読み解くため、生い立ちからインタビューし、そのタフ&クールな生き様に迫りました。
<ポイント>
・家にも学校にも居場所がなく、ぬくもりを感じられなかった
・「死にたくない、だけどこの地獄にもいたくない」という日々
・学年ワーストから心機一転、名門進学校を目指した理由
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■「鬱(うつ)の乱暴者」だった学生時代
倉重:きょうはグローバルダイニングの長谷川社長にお越しいただいています。
長谷川:よろしくお願いします。ひょんなご縁で知り合ってから何回か飲ませてもらい、『タフ&クール』が文庫化をしたのをきっかけに、対談させていただくことになりました。
倉重:私の手元にあるのは昔出版されたハードカバーです。定価は1,600円ですけれども、希少価値が出ていて5,000円になっていたのを購入しました。皆さんはご存じないと思いますけれども、実は長谷川さんはとんでもない育ち方や人生を送られているのです。長谷川さんの会社のグローバルダイニングは、今通常営業を続けるというご判断で、いろいろな意味で目立っていると思います。
長谷川:そうですね。国賊企業などと言われています。
倉重:もちろん売上も上がっていますから、表面的なところだけを見ると、「金のためにやっているのか」と思う人もいるかもしれません。
長谷川:最近決算発表をしたので、そういうふうに見られてしまいがちです。
倉重:ニュースでも「売上が9割増」と出ていましたね。どういう思いで今の判断に至ったのかをぜひきょうは解きほぐしたいです。そのためには、この本にも出ていますが、生い立ちから聞いていきたいと思います。
長谷川:長くなってしまいます。僕は実家が神奈川県横浜市の子安浜と呼ばれる昔の漁師町で生まれました。横浜でも一番古い浦島丘中学校があって、浦島伝説の発祥の地のようなところです。僕は4人きょうだいの長男です。
倉重:ご実家は酒屋なのですよね。
長谷川:酒屋と米屋をしています。祖父が丁稚上(でっちあがり)で本当に苦労人でした。倹約家で無駄なお金は使わないという人で、今思うと商売の基本について、かなり薫陶を受けたかなと思います。両親は見合い結婚で、新潟の造り酒屋の次男坊を婿にもらいました。夫婦仲はずっと悪かったです。おやじが酒飲みの暴君でしたから。
倉重:子供のころは、始終酒臭く、暴力を振るう父を憎んでいたと書いてありましたね。長谷川さんはカトリックの学校に入れられるのですよね。
長谷川:1年生のときは地元の子安小学校という公立校にいました。京浜工業地帯の気の荒い漁師町のど真ん中にあって、柄が悪いところです。漁師か仲買人か、もしくはマイノリティーとして商人や勤め人の子どもがいました。なかなか漁師の子どもたちとは相まみえず、融合できません。隣町の駄菓子屋に買い物に行くのは割と冒険でした。
僕は小学校1年のときに非常に問題児童だったのでしょう。おふくろは「こんなところで問題児になったらどうしようもない」ということで、僕を地獄のカトリックに転校させたのです。
倉重:小学校は長谷川さんにとって最悪の場所になったんですよね。
長谷川:学校の先生とは徹底的に折り合いが悪くて。なぜかというと、素直に先生の言うことを聞かないからです。「何で?」というのが口癖でした。嫌な子でしょう?
倉重:今だとそういう「考える力」は尊重されつつあるのですが、昔は悪い子だと言われたのですね。
長谷川:常に従わないわけではなく、わからないことや、理不尽なことに対して「なんで?」と聞いているだけなんです。納得したら割と素直でしたが、先生たちは僕の質問に答える代わりに「素直じゃない悪い子」というレッテルを貼りました。
倉重:「屁理屈ばっかり言ってたら地獄に落ちますよ」と怒られたと。みんなと一緒に右にならえができない性格は今にも通じるものがあります。中学校は受験されるわけですね。
長谷川:そのカトリック学園は、基本的には女子校なので、中学校に進学する時点で、男子生徒は自動的に追い出されてしまうんです。あの頃の神奈川県で言うと、栄光や聖光などに進学させるためにやたらと勉強させられたのですが、僕はできなかったので、家の近所の浅野学園に入りました。
倉重:著書によると、浅野学園時代は、「鬱(うつ)の乱暴者」だったそうですね。
長谷川:人間は不幸だと暴力的になりますよね。いつもいじめられている犬が凶暴になるのと同じです。家にいると恐怖の対象がおやじで、酔っ払ったおふくろとけんかしたり、子どもたちに手を出したりする環境にいるので、変な話ですが矯正キャンプよりもひどいわけです。友達もいないし、持って生まれたDNAもそうだったのですけれども、やはり基本的に幸せじゃないから凶暴になるのです。家が最も居心地が悪い場所でした。
倉重:内心では傷ついたり、つらい思いをしたりしているからこその暴力性だったのかなと思うのですが。
長谷川:祖母や母親などに愛されているのは実感しています。だけど、とにかく温もりを感じていないので、そこが嫌な場所だと思っていました。犯罪してしまう人は、愛されていないので、自分の命を軽く見るので、人の命も軽く見てしまうのです。
倉重:すぐ暴力をふるうような表面的なところだけを取ると、厄介者や落第者というふうに扱われてしまいますね。
長谷川:カトリックではケンカができる相手はいませんでした。悪口や仲間はずれでいじめられたりしましたけれども、面と向かって殴り合いなどは起きなかったのです。ところが地元は荒っぽい連中が多いですから、殴ったり殴られたりのケンカも珍しくありません。中学校の入学式が終わって、クラスのグループごとに校庭に集まったときに、もうケンカをしてしまいました。
倉重:早いですね。
長谷川:雄同士は男性ホルモンが出てくるじゃないですか。目が合ったときに、向こうも視線をそらさないやつがいたんです。少しずつ近寄って、話もせずにいきなり殴り合いになりました。
倉重:「何を見ているんだよ?」と。完全に不良漫画に出てくるようなシチュエーションですね。
長谷川:相手の顔面を殴ったら、鼻血がどくどく出てしまいました。それから誰もそばに寄ってこなくなったんです。
倉重:腫れ物に触る感じですよね。最初の頃は勉強もしていなかったと書いてありました。
長谷川:小学校のときは抵抗できないから、おふくろに隣に座られて「勉強しろ」と言われていました。教育ママだったのでしょうね。中学に入ると、体も大きくなるし、言うことを聞かなくなるじゃないですか。それから一切勉強はしませんでした。中1の2学期が終わった頃は、まだ中間ぐらいにいましたが、3学期になったら急に全部分からなくなってきたんです。
倉重:勉強しなさ過ぎてですか。
長谷川:2年になったら本当に分からなくなって、60人中58番だったのです。後ろにいる2人の答案は白紙です。
倉重:白紙と一緒のレベルということですね。
長谷川:勉強ができないということは、学校だとすぐに分かるじゃないですか。先生や親、弟、クラスの連中が僕をあからさまにバカにするんです。それが我慢できませんでした。家庭環境やDNAの関係で、協調性がなく攻撃的な性質ですから、友達も少なくて。友達が笑っているだけで頭にきました。
倉重:この世の全てを恨むような時期はありますよね。
長谷川:今思うと鬱状態なのです。自己喪失していて、威張りたいのに威張る根拠が何もなく、ただただ凶暴でした。中学2年の1学期の3カ月間は、毎日死ぬことを考えていました。朝起きると「うわ、目が覚めちゃった」と感じ始めたのです。目が覚めたときからずきんと痛みがきました。
倉重:それは完全にメンタルにきていますね。
長谷川:目をつぶって意識がないときのほうが楽だと思っているわけです。そのぐらい本当に、危ういぐらいにつらかったです。2~3カ月は、その中にいました。
倉重:どう立ち直ったのですか。
長谷川:死にたくない理由が2つありました。僕はすごく性的にませていた子どもでした。「女性を知らないで死ぬわけにいかない」という想いが、強烈なライフラインがつながっていたわけです。
倉重:何もしないまま、死んでたまるかと。それは本能ですね。
長谷川:本能です。もう一つは、おやじの出身地である新潟の田舎が大好きだったのです。たぶん遺伝子的に向こうにつながっていたのでしょうね。そこでスキーを死ぬほどやりたいという2つの欲望がありました。
倉重:スキーをやるまで死ぬわけにはいかないと。
長谷川:「死にたくない、だけどこの地獄にもいたくない」と思っていました。どうしたらいいんだろうと考えて、「勉強をして見返すしかないじゃないか」というとても有益な結論になるわけです。俺はたぶん典型的なADHDで、じっとしていられませんでした。小学校1年生のときには、授業中後ろの窓から飛び出して、ずっとぐるぐる回っていたのです。おふくろが呼ばれていつも怒られていました。
倉重:じっとしていられない子ですね。私もそうでした。
長谷川:こういうタイプが机の前に座るのは恐怖なのです。かばんを開けて教科書を出すなんてその倍ぐらいの恐怖。その3倍の恐怖は、本を開けることです。ここまでいくのが大変です。
■「自分は勉強が大好きだ」と催眠をかける
倉重:その状態から、どうやって勉強したのですか?
長谷川:おふくろに頼んでトランジスタラジオを買ってもらって、音楽を聴きながら勉強するようになりました。今でも社員の誕生日カードなど、まとまった物を肉筆で書くときには、音楽を聴かないと駄目なんです。中学校2年生の夏休みが終わってから、ラジオ関東などを聴きながら、勉強を始めました。
倉重:最初のチャレンジですね。
長谷川:そのとき『少年サンデー』か何かの読み物に、「自分の苦手を克服する」という自己催眠の方法が書いてあったのです。寝る前に目をつぶって、こめかみに指を2つ当てて50数えなさい。自分がチャレンジすることを50回唱えなさい。終わったらまた50回数えなさいというものでした。「俺は100回やろう」と思って、毎晩100回、「俺は勉強が大好きだ」という催眠をかけました。
倉重:自分に暗示をかけるわけですね。
長谷川:それだけではなくて、ポスターを書いて、「俺は勉強が大好きだ」と2段ベッドの上に貼ったのです。水泳部も辞めて学校から直帰して勉強を始めました。
倉重:それはまたすごいですね。
長谷川:「何が起きたんだ、こいつは気が狂ったのかな」と言われました。2学期の最終で58番だったのが、中間試験で60人中12番になりました。
倉重:一気に上位ですね。
長谷川:やる気になれば簡単なわけですよね。
倉重:それはやはり見返してやろうという気持ちですか。
長谷川:自分のプライドがすごく強くて、割と正直者だから、「威張るものがないのに威張れないじゃないか」と気づいたのです。凶暴さだけでは尊敬の念は得られません。ある日、化学の先生から「授業が終わったら職員室に来い」と言われました。絶対に褒められると思って、スキップを踏みながら行ったのです。そうしたら、担任はニコリともせず、「おまえはカンニングしただろう」と言うのです。
倉重:せっかく勉強して点数が上がったのに、カンニングだと言われると。
長谷川:僕はもう激怒して、「今ここで試験を受けさせろ」と言いました。あまりにこちらの剣幕がすごかったので、それで終わりました。1学期が終わったときに、この先生は「おまえの成績では、うちの学園の高等部には上がれない。今からどっかのバカ高校に行く準備をしておけよ」と言って、僕を奈落の底に落としたわけです。後から、「自分で勉強して、この学園よりももっとレベルの高い学校に行ってやる」と宣言しました。
倉重:日本でも有数の名門進学校、県立湘南高校ですね。
長谷川:その後約1年半近く、ずっと勉強を続けられたのは、この先生への憎しみのおかげです。
倉重:本当に負の力でやったということですよね。私も中学のときに偏差値37だったのですが、「見返してやる」という「負の力」で成績が上がった経験があるので、本当によく分かります。
長谷川:あれがなかったら遊んでいたと思うので、先生はもしかしたら天使だったのかもしれません。1学年が360人近くいる中学校ですが、「アイツが湘南高校を受けると宣言して勉強している」というのは、全校に知れ渡っていました。
合否発表の日。体育の授業の終わりに整列しているときに、体育教師に「おい、長谷川」と呼ばれました。こいつは暴力教師ですぐにひっぱたくので、「またこいつに殴られるのか」と思わずうつむきました。ところが、彼はこう言ったんです。「長谷川、おまえ湘南受かったぞ」と。その瞬間並んだ生徒たちが「うおー」っとどよめいたのです。
倉重:すごいですね。本には「僕の人生にとって必要なのは、誰もが尻込みすることにチャレンジする精神と、それを達成して得られる充実感なんだ」と書いてありましたね。このあたりの発想は今の長谷川さんの基本路線としてそのまま残っていると感じます。
(つづく)
対談協力:長谷川 耕造 (はせがわ こうぞう)
株式会社グローバルダイニング代表取締役社長
1950年 横浜市生まれ。1971年 早稲田大学を中退し、欧州を放浪。1973年に有限会社長谷川実業を設立し、高田馬場に喫茶店「北欧館」をオープン。1976年「六本木ゼスト」を皮切りに、「カフェ ラ・ボエム」「ゼスト キャンティーナ」「モンスーンカフェ」「タブローズ」「ステラート」「権八」と次々に
エンターテインメントレストランを都内中心に出店を拡大。
1991年米国第一号店として、ロサンゼルスに「ラ・ボエム」、1996年にはサンタモニカに「モンスーンカフェ」をオープン。(2016年に「1212(twelve twelve)」にリニューアル)
1997年に商号を株式会社グローバルダイニングへ変更、1999年東証2部上場。2021年8月現在は、国内外に44店舗を展開中。