『万引き家族』首相の賛辞がないこと。コメントの意図が曲解されること。映画監督として社会を描くこと
ここ数日、フランスのフィガロによる記事が、静かに波紋を呼んでいる。カンヌ国際映画祭で、日本人監督として21年ぶりに最高賞のパルムドールに輝いた『万引き家族』の是枝裕和監督に対し、安倍首相が一切、祝福のコメントを出していない、という内容だ。
安倍首相といえば、平昌オリンピックの金メダリストや、ノーベル文学賞の日系英国人、カズオ・イシグロにさえ、公式に祝福を贈っていたのに、今回のような映画界でも最大の栄誉のひとつに、何もコメントを出さないのは、たしかに少し違和感はある。
カンヌといえば世界3大映画祭のひとつで、しかも他の2つ、ベルリン、ヴェネチア以上に、その賞の行方は大きく報じられる。映画界にとっては最重要トピックだが、では一般的にみるとノーベル賞やオリンピックに比べて関心が薄いのだろうか。その判断は微妙なところでもある。
フィガロが指摘しているのは、是枝監督が日本の現政権に対し、批判的な立場をとってきた点で、それゆえに、そういう思想の人に国の代表が賛辞を贈るわけにいかない……という点である。
このフィガロの記事の前にも、是枝監督の出したとされるコメントが、一部、ネット上で騒がれていた。それはカンヌでの中央日報によるインタビューだ。
さらに『万引き家族』が、日本社会の「負」の部分に焦点を当てたこと(→日本の恥部を世界に晒している)や、犯罪に手を染める主人公たちを描くことで犯罪を正当化している、などという批判も上がっていた。
では、是枝監督は実際にインタビューでこのように発言したのか? それについて監督が6月5日、自身のHPで経緯を綴った。
それによると、中央日報の記事には、どこか「誤解」を与える危険をはらんでいたことがわかる。通常、このようなインタビュー記事は、書き手の判断によって、いくつかの答えを一つのコメントにまとめたり、またその逆に一つの答えを、いくつかに分散させたりと、「編集」の作業が入ってくる。あくまでも取材対象者の意図を伝えようとしつつ、書き手の想定した方向へもっていくことも多い。
しかもカンヌのインタビューで、日本語ができないジャーナリストは基本、通訳を介すことになる。グループインタビューの場合、質問の流れが次の質問者で寸断されることもある。そこで、ある程度の齟齬が生じるのだが、これは避けることはできない。
上記のコメントの「国粋主義云々」のところについて是枝監督はーー
と説明している。そして「日本が謝るべき」の部分についてはーー
さらに「同じ政権」についての部分はーー
もちろん中央日報としては、これら個々に話されたであろうコメントを、記事としてコンパクトにまとめるべく、そして映画のテーマを記者の理解を重ねつつ表現するべく、一つにしたのだろう。しかしその結果、読む人によっては、是枝監督の強烈な日本批判を感じずにはいられなくなった、と思われる。
このようにインタビューに答えた側の意図が完全に伝えられず、それぞれの媒体の、ある程度の思想が込められることは現実で、あくまでも受け取る側の判断に任されるわけだが、こうした記事によって「是枝監督の作品は観たくない」という人が増えるのは不幸なことだと思う。
さらに映画監督としての「存在意識」を考えたとき、やはり「社会に埋もれて、無視される現状」を伝えたいと思うのは必然であり、その題材や姿勢が時の政府のポリシーに反することもある。しかし「表現」として認められるべきで、表現されたものを観たうえで、理論的に批判されるなら、作り手としても歓迎するはずだ。『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』を撮ったスティーヴン・スピルバーグ監督や、つねに社会の底辺に視線を注いできたイギリスのケン・ローチ監督に象徴されるように、これは映画としての大きな役割である。
是枝監督自身は、今回、『万引き家族』と自身のインタビューに関して巻き起こったネット上でのあれこれが、現在の日本社会を「可視化」することに役立ったと、前向きに受け止めているようだ。
結局のところ、こうしたさまざまな考え方、論議をふまえたうえで、『万引き家族』という作品に向き合うこともできるわけで、観客としては最も幸福な映画体験になるかもしれない。
『万引き家族』
6月8日(金)より、TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー
(c) 2018フジテレビジョン ギャガ AOI Pro.
配給:ギャガ