シンザン記念、フェアリーSで思い出される、ある調教師の両親との物語
父に教えられて競馬の世界へ
今週末、JRAは月曜までの3日間開催。9日には中京競馬場でシンザン記念(GⅢ)、10日には中山競馬場でフェアリーS(GⅢ)がそれぞれ行われる。この連日の重賞で思い出される出来事がある。
二十年以上前、横山典弘の実家で行われた鍋パーティーに呼んでいただいた。その宴席で、1人の男が「調教師を目指す」と宣言すると、周囲にいた仲間達が一斉に「おまえには無理」と口にした。そう言われた男が、後にこの2日連続での重賞に関わる清水英克だった。
清水は1965年9月、千葉県で生まれた。ある日、1台の変わった形をした車を見た彼は、それが何であるのか、父に聞いた。
「『馬を運ぶ車』と答えられました」
馬運車だった。何のために運ぶのか?など、父と言葉をかわし、教えてもらううちに、馬に乗ってみたいと思うようになった。そして、乗馬を始めると、魅了されて一時は騎手を目指すほどになった。
「背が伸びたので諦めたけど馬の世界に入りたいという気持ちは変わらず、高校3年生の時、すでに競馬学校にも通っていました」
高校を卒業した84年4月には早くも美浦・石栗龍雄厩舎で働き始めた。当時の模様を次のように述懐する。
「知り合いがいなかったので話し相手は馬でした。その時間が楽しくて、いつまでも馬といると先輩から『いつまでやっているんだ!!』とよく叱られました」
母が病に倒れる
93年には土田稔厩舎へ転厩。97年に結婚し、98年に子供が生まれたのを機に調教師を目指すようになった。
「何度受けても落ち続けました。心が折れそうになったけど、そのたび母親が励ましてくれました」
そんな母に吉報を届けられる日が来た。2005年、7度目の受験で清水はついに難関を突破した。
しかし、時を同じくしてもう1つ、耳を疑う悲しい報せも届いた。
「母が病に倒れました」
余命を宣告されたが、息子の晴れ姿を見る事を励みとしたのか、06年1月の開業まで持ちこたえた。
「その時はすでに寝たきりでしたが喜んでくれました。それどころか更に3ケ月後の初勝利の時も病床で笑顔を見せてくれました」
息子の初勝利を見守るように、その直後、息を引き取った。
以来、中山開催の初日には必ず競馬場近くにある母のお墓をお参りをするようになった。
「墓前で手を合わせ『見守ってください』と祈るようになりました。ただ、競馬はなかなか思うように行かない事が多かったです。当然、苦しい時もありました。それでも、残された父の事を考え、喜んでくれた母の顔を思い出すと、おいそれと投げ出すわけにはいきませんでした」
シンザン記念とフェアリーS
開業5年目の2010年の事だった。前年の朝日杯フューチュリティS(GⅠ)で4着に善戦したガルボをシンザン記念(GⅢ)に挑戦させた。すると内枠を利して好位を立ち回った同馬は直線で楽々と抜け出し、清水にとって初めてとなる重賞制覇という勲章を届けてくれた。
「その晩、京都での祝勝会で『明日も勝つぞ!!』と宣言しました」
翌日のフェアリーS(GⅢ)にはコスモネモシンと共に挑んだ。道中、中団を進んだ同馬は直線で末脚を発揮。先に抜け出したアプリコットフィズをゴール直前で捉え、先頭でゴールインしてみせた。
「開業5年目で初めて重賞を勝てたと思ったら、いきなり2日連続での勝利。父も喜んでくれたので嬉しかったし、母には『投げ出さずにやってきて良かった』と報告をしました」
墓前に報告したい事
それから10年以上の歳月が流れた。JRAの通算勝利数は昨年200を突破したが、この間に“馬運車”を教えてくれた父は他界した。
また、重賞の勝利数はコスモネモシンが新潟記念(GⅢ、13年)を勝つ等して、6まで伸びた。しかし、14年にガルボが函館スプリント(GⅢ)を制したのを最後に、しばらく栄冠からは遠ざかっている。
「応援してくれる人は沢山いるし、天国の両親にも心配をかけられないのでそろそろまた大きいところを勝たないといけませんね」
転厩して来たケイティブレイブや、ホープフルS(GⅠ)で目立つ末脚を披露し、共同通信杯(GⅢ)を予定しているアケルナルスターなど、今年はそのチャンスが充分にあるだろう。
「亡くなるまで応援をしてくれた」という父は、母と同じお墓に入っているそうだ。今でも中山開催の初日には墓参りを欠かさない清水が、そこへ吉報を届けられるよう、期待したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)