ジャーナリズムと「自己責任」を若者と考えてみた
2012年には最悪の143人が殺害
ジャーナリストによる非政府組織「国境なき記者団」(本部・パリ)の統計では、米英両国が主導したイラク戦争と中東の民主化運動「アラブの春」をきっかけとしたシリア内戦で殺害されるメディア関係者の数は激増している。
1979年には犠牲者はわずか2人だったが、シリア北部アレッポで独立系通信社「ジャパンプレス」の女性ジャーナリスト、山本美香さん=当時(45)=が命を落とした2012年には最悪の143人が犠牲になった。
これはイスラム過激派組織「イスラム国」の生みの親である「イラクのアルカイダ」の設立者で元最高指導者アブ・ムサブ・アル・ザルカウィ(06年6月、米軍の空爆で死亡)がイラク戦争を奇貨としてスンニ派とシーア派の宗派抗争を引き起こす戦略をとったことと密接に関係している。
敵と味方がはっきりせず、どこから弾が飛んでくるのか、どこで誰に拉致されるのかもわからなくなった。イラク戦争では米軍の空爆や攻撃で命を落とした記者もいる。
13年にはジャーナリストや市民記者ら138人が殺害され、87人が誘拐された。シリアでは内戦が激化している。それでもジャーナリストが危険地域に向かうのは、周辺のアラブ諸国、欧米諸国にとって中東が不安定化することは自国の安全保障に直結するからだ。
02年以降、後藤健二さんが殺害されるまで「国境なき記者団」の統計でカウントされた日本人ジャーナリストは山本美香さん一人。
日本は11年度、原油の99.6%を海外から輸入、輸入先も中東地域が8割以上を占める。しかし、今回の事件が起きるまで十分な関心が払われてきたとはとても言えない。
後藤さん殺害は非軍事支援国も敵とみなすとイスラム国が宣言したことを意味する。日本もテロとは無関係ではいられなくなった。これまでのように「現金自動支払機」では済まされなくなったのだ。
ロシアのプーチン大統領がウクライナのクリミアの国境を書き換えたように、イスラム国も西洋が引いた国境を書き換えようとしている。イスラム国は国際テロ組織アルカイダとは違う意味で世界秩序を壊すインパクトを秘めている。
現場でしかわからないことがある
シリアの内戦激化に伴い、ジャーナリストの生命を守るため、小型の無人航空機やソーシャルメディアを使った情報収集が真剣に議論されるようになった。
紛争地の市民とソーシャルメディアを通じて連絡を取り、市民ジャーナリストとして現地からレポートしてもらうケースも増えてきた。
しかし、ベテラン・ジャーナリストによる現場のナマ映像、紛争地からの肉声にまさるレポートはない。机の上からとでは迫力も訴える力も違い過ぎる。その、当たり前のことを今回の事件は私たちに突きつけている。
英紙インディペンデントのロバート・フィスク記者(68)から聞いた話が忘れられない。
フィスク記者は米紙ニューヨーク・タイムズから「英国で最も名の知られた海外特派員」と評価されたベテラン中東特派員だ。メディア王ルパート・マードックが買収した英紙タイムズからインディペンデント紙に1989年に移った。
数々の紛争を取材してきたフィスク記者に「あなたは戦争特派員ですか」と尋ねると、「私は中東特派員だ。いま戦場になっているところも、それまでは平和に人々が暮らしていた。何度も訪れたことがある見慣れた街が戦場に変わるのだ。私は戦争ではなく中東をカバーしている」と話してくれた。
主要メディアの記者が民間警備員に守られ、ホテルで現地通信員からの情報をまとめている状況を嘆いて、「伝えたい人たちの話があるから、そこに行くのだ。どうして警備が必要なのか」と首を傾げた。
フィスク記者には長年の取材で培った人脈と信頼が戦場と化した街にも残っている。
米中枢同時テロの後、米国が中心になってアフガニスタンを空爆。01年12月、取材のためパキスタンからアフガニスタン入りを目指したフィスク記者はアフガン難民と出くわす。
話を聞こうとしたフィスク記者はアフガン難民に襲われ、別の難民に救い出される。
米国は、アルカイダの指導者ウサマ・ビンラディンをかくまうイスラム原理主義勢力タリバンからアフガンを解放する戦争だと大義名分を掲げたが、実際は空爆の巻き添えで家族を失ったアフガン住民の怒りを増幅させていた。
フィスク記者は負傷した自分の写真をインディペンデント紙に掲載、「私の負傷こそが、この不快な戦争の嫌悪と怒りを物語っている」と伝えた。「反米的だ」という大きな批判を招いたが、アフガン、イラク戦争が招いた中東の混乱がフィスク記者の視点の確かさを裏付ける。
オバマ米大統領がアフガンからの撤収を発表したときだった。
「ウオウ、ウオウ、君はそんなことを真に受けているのか。米国はこの戦争に負けたのだ」
「つい先日、タリバンの兵士に会って来たが、彼らは自分たちで戦功や信仰についてまとめた雑誌を作って戦場で読んでいる。兵士の1人は『米国や英国の兵士にはこんな余裕はないだろうね』と話していた」
フィスク記者はこんなエピソードを明かしてくれた。
生きていなければ記事は書けない
「戦場での取材で生命の危険を感じたことはありますか」と尋ねると、フィスク記者は「生きていなければ記事は書けない。死ぬかもしれないリスクを犯すのは、自分しか伝える人がいないときだ」と強調した。
フィスク記者はビィンラディンから3度もインタビューしている。インターネットは信用しない。中東のいたるところから電話がかかってくる。それが情報源だ。
ワシントンやロンドン、東京発の情報では伝わらない真実が紛争地にはある。しかし、フィスク記者が言うように、生きていなければ記事は書けない。
生きて帰ってきた後藤さんのレポートを聞きたかった。
ジャーナリストを目指すつぶやいたろうジャーナリズム塾(筆者主宰)4期生の笹山大志くん(20)も今回の事件には揺さぶられたようだ。
ジャーナリズムに人生をかけたい
【笹山大志】あの瞬間、後藤さんは何を考えていたのだろう。考える余裕などなかったかもしれない。昨年10月末から3カ月余。地獄のような環境に置かれ、最後には斬首された。想像しただけで血が凍りそうだ。
後藤さんは危険を承知の上、シリアに入った。「自分の責任でイスラム国支配地域へ行く」。シリア北部で撮影されたビデオ映像で後藤さんはこう語っている。
残された後藤さんの家族のことを思うと、「自己責任」とは言っても自分1人では決して完結しない。自分を思ってくれる家族や友人がいる限り、「自己責任」という言葉は自己欺瞞と言えるかもしれない。
私も「自己責任」という言葉を使ったことがある。
2年前の夏、中国の旅行社を通じて北朝鮮に行くことにした。北朝鮮行きを両親、特に母親から猛反対された。「僕は殺されようが、拉致されようが全ては自分の責任」。
「自己責任」という言葉で突っぱねた。
両親は「もし何かに巻き込まれた時に、お前の安否を思って一生を送ることなんか耐えられない」と言った。「僕を愛してくれる家族がいる限り、自己責任では済まされないんだな」と思った。
初訪朝は今でも心に刻まれている。特に北朝鮮南西部の信川を訪れたときだ。信川は1950年に勃発した朝鮮戦争で米軍が3万5千人を虐殺したと北朝鮮側が主張している地域だ。真相はわからない。
生き残りの70代の老人が語りだした。「拘束された母親と子供たちは別々の倉庫に入れられ、焼き殺された」「隣の倉庫から自分の名前を叫びながら死んでいく母親の声は一生忘れられない」
「別の倉庫に閉じ込められた子供たちが、ノドが渇いたと叫ぶと突然、米兵が鉄の扉を開け、水筒を子供たちの口元に当てた。しかし、それはガソリンだった。子供たちは床で這いずり回った」
北朝鮮の反米プロパガンダかもしれない。しかし、反米感情を露わにする老人の言葉を通じて、核・ミサイル開発を進め、米国に強気の姿勢をとる北朝鮮の論理が頭ではなく腹の底から理解できた。
実際に現場を訪れると、モノの見方が深く、多面的になる。現場には言葉や、音、匂いが満ちあふれている。
インターネットやオープンデータの発達でジャーナリズムのあり方が変わろうとしている。しかし、現場ジャーナリズムの役割は変わらない。
後藤さん殺害のニュースを見た父親からメッセージが届いた。
「後藤さんは立派なジャーナリストだったかもしれない。ただ、生きて帰らねば、日本中が賞賛しても家族には悲しみしか残らない」
「たとえゴール直前まで来ていたとしても、そこから撤退できることが本当の勇気だ」
後藤氏が殺害された後も、多くの日本人ジャーナリストが危険と隣り合わせで現場で取材している。
私にもこれから、生死の選択を強いられる場面が訪れるかもしれない。そんな選択を迫られる時に、自分を思ってくれる家族や仲間がいることを忘れないでいたい。
危険な中朝国境地域に90回以上も訪れ、現場主義を貫き通す北朝鮮ジャーナリスト、石丸次郎氏がテレビ番組で語った言葉がある。
「(北朝鮮取材に)命はようかけないけど、人生はかけている」
私もジャーナリズムに人生をかけたい。
笹山大志(ささやま・たいし)1994年生まれ。立命館大学政策科学部所属。北朝鮮問題や日韓ナショナリズムに関心がある。現在、韓国延世大学語学堂に語学留学中。日韓学生フォーラムに参加、日韓市民へのインタビューを学生ウェブメディア「Digital Free Press」で連載し、若者の視点で日韓関係を探っている。
(おわり)