戦国時代の二人の天才軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛の深い絆とは!?
豊臣秀吉の人生に大きな影響を与えた2人の天才軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛がいます。
竹中半兵衛は木下藤吉郎時代に仕え、黒田官兵衛は長浜城主になった羽柴秀吉時代になってから仕え、二人は出会いました。家中では新参の黒田官兵衛でしたが、メキメキと頭角を現しました。
両者ともに実力を認め合っていたのか、半兵衛派VS官兵衛派の派閥争いもなく、秀吉の両翼として家中をうまくコントロールしていたように思います。
そこで、今回は戦国きっての名軍師2人の絆について紹介します。
稲葉山城を乗っ取った竹中半兵衛
稲葉山城は、難攻不落の城で美濃国の拠点として斎藤氏が治めていました。その稲葉山城を攻略しようとやっきになっていた織田信長でしたが、斎藤家中で竹中半兵衛による稲葉山城乗っ取り事件が起こります。
わずかの手勢で城を制した事で世間を驚かせましたが、半兵衛はわずか半年で主君・龍興に城を明け渡しました。
この事件は、龍興に対する懲らしめの意味合いが強いと言われています。しかし、実際に政治を行おうとした形跡もあった事から、領地運営がうまくいかなかったことにより明け渡した説もあるようです。
竹中半兵衛は無欲な天才軍師のイメージがありますが、やはり戦国武将らしい野心はしっかりと持っていたかもしれません。
黒田官兵衛と秀吉の播磨攻め
一方で黒田官兵衛の名前が出てくるようになるのは、羽柴(豊臣)秀吉の播磨攻めの頃。
信長が松永久秀を討った頃、官兵衛は秀吉の播磨攻めに従軍します。これにより、戦国二兵衛がそろい、その後1ヵ月足らずで秀吉は播磨国を臣従させることに成功させました。
三木城・別所長治と有岡城・荒木村重の謀反
秀吉による戦いは順調でしたが、播磨国にある三木城の別所長治が突然謀反を起こすと状況が変わります。播磨で影響力を持っていた別所長治が反旗を翻した事で、国人衆が次々と造反し秀吉は窮地に立たされました。
そして、立て続けに播磨と京を結ぶ要所である摂津の有岡城の荒木村重までもが謀反をおこします。
この時、竹中半兵衛は三木城へ、黒田官兵衛は有岡城へ説得に向かう事に。
ところが、官兵衛が荒木村重に捕らえられて土牢に一年幽閉されてしまいました。官兵衛投獄は信長も秀吉も把握しておらず、突然連絡が途絶えた官兵衛に信長は謀反の疑いをかけ、嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を処刑せよと命令が出ます。
しかし、官兵衛の事を信じていた半兵衛は松寿丸の処刑を申し出て、信長の命に背く形でひそかに自分の城で保護しました。
竹中半兵衛と黒田官兵衛の絆
1年後に有岡城は信長軍によって陥落し、土牢から官兵衛が発見されます。この時、官兵衛の無実が証明されました。信長は人質の松寿丸を処刑してしまった事を悔やみましたが、後に半兵衛に保護されていた事を知って感謝したと言います。
当然、一番喜んだのは官兵衛で半兵衛に感謝をしてもしきれません。しかし、竹中半兵衛は、官兵衛の幽閉中に亡くなっていたので感謝の機会は訪れませんでした。
信長が本能寺で討たれた時に『運が開けましたな』と秀吉に言ったドライな官兵衛も、半兵衛の死を知ると半狂乱になって号泣したと言います。
なぜ竹中半兵衛は、信長の命に背いてまで松寿丸を助けたのか?
この頃の半兵衛は病に伏せがちで死期が近いことを感じていました。
そこで、自分が処刑役を買って出て松寿丸を保護することを思いついたのかもしれません。信長にその事実がばれてもすでにこの世にいない自分を処分することができないと考えたのかもしれません。こうして、半兵衛は自分の死を利用して一芝居打ったのです。
とはいえ、長政を助ける事が大きなリスクなのは間違いありません。半兵衛はそのリスクを抱えてでも助けたいと思う感情を官兵衛に抱いていたのではないのでしょうか?
この一件以降黒田家では竹中家の石餅の家紋を使い、半兵衛の子・竹中重門が元服した時には烏帽子親を務めています。半兵衛は死の間際に黒田親子を気遣う手紙も残していたそうです。
この二人の友情は、本人たちだけではなく子の代まで続きます。
1600年に起こった関ケ原の戦いで黒田長政は西軍諸将を徳川方につかせるために尽力したのは有名な話です。その多くは打算的ですが、当初西軍にいた竹中重門に対しては打算抜きで説得したとも。そして、二人の息子たちは東軍として戦いそれぞれが武功をあげ幕府設立後に黒田家は福岡藩に、竹中家は幕府旗本としてその血を繋げていきました。