風のように去った菊花賞馬と、武豊、武幸四郎兄弟のエピソード
僅か1年の競走生活
2006年の1月にデビュー。引退したのは同じ年の12月。僅か1年の競走生活の間に、頂点を極め、海外へも遠征。その名の通り風のように去って行ったのがソングオブウインドだ。
京都競馬場のダート1800メートルでデビューした。最初の3戦で、手綱を取ったのは武豊だった。
「走る面のある良い馬ではあったけど、当時は掛かって大変でした」
こう語るようにその3戦は全て1番人気。2、3、3着と好走したが、折り合いを欠く分、なかなか勝ち切れなかった。
しかし、その後、武幸四郎(当時騎手、現調教師)に替わると、コンビを組んで2戦目、デビューから計5戦目で初勝利。更に後、芝に戦場を移し、2勝目をマークすると、初めての重賞挑戦となったラジオNIKKEI賞(GⅢ)で2着。秋は菊花賞(GⅠ)を目指し、神戸新聞杯(GⅡ)に駒を進めた。
「序盤から折り合いを欠いてコントロール出来なくなったため、他馬と接触してしまい、前へ行く形になりました」
この時、騎乗していた武幸四郎は、後にそう語り、更に続けた。
「ただ、向こう正面に入ると落ち着いたので、最後は思った以上に粘ってくれました」
結果は3着。勝てはしなかったものの、手応えを掴んで菊花賞に挑む事になった。
「人気の一角のフサイチリシャールに一度はかわされながらも差し返しました。へこたれない馬だと感じたので、前半をフワーッと行かせて折り合いさえつけば、菊花賞も面白いと思いました」
言葉でそう言うほど実践するのは容易ではないが、若き日の武幸四郎は、これを見事にやってのけた。天才騎手の名をほしいままにする兄をして「あの馬をよく折り合わせた」と感心させる手綱捌きを披露。前半、後方でタメると、直線は末脚を炸裂。結果、3分2秒7という当時のレコードタイムで、菊の大輪を射止めてみせた。
海外でのエピソード
物語には更に続きがあった。
菊花賞馬となったソングオブウインドは勇躍、海を越えた。香港で行われる香港ヴァーズ(GⅠ)に挑戦する事になったのだ。
しかし、異国で思わぬアクシデントに襲われる。木、金、土と馬場入りせず。角馬場での軽めの調整のみで、現地の新聞には「脚元を痛めている模様」との活字が躍った。
同馬の厩務員は当時「輸送で減った体がなかなか戻って来ないし、正直、苦労しています」と眉間に皺を寄せて語っていた。
そんな状態で迎えた香港ヴァーズだが、武幸四郎に、救いの手を差し延べてくれたのが、誰あろう武豊だった。
同じレースでアドマイヤメインに乗っていたのが武豊。馬番順で曳かれるパドックでは、前を9番の武幸四郎=ソングオブウインドが、その直後を10番の武豊=アドマイヤメインが歩いていた。
しかし、本馬場入場時は弟の幸四郎の前に、兄が出た。馬場入り時に癖のあるソングオブウインドを、香港でも騎乗経験豊富な武豊が、誘導してくれたのだ。
そんな武豊アドマイヤメインは、レースでもハナを切った。中盤2ハロン毎のラップは24秒7-24秒5-24秒6。さすがと思える絶妙の流れに持ち込んだ。
しかし、その時、最後方で同じように良い手応えを感じていたのがソングオブウインドの幸四郎だった。そして、意外にも先に音をあげたのはアドマイヤメインの方だった。直線へ向くと失速。兄からバトンを受け取るように、武幸四郎のソングオブウインドが右手前のままグイグイと伸びて来た。
もっとも、馬場入りを中止していた調整過程からも分かるように、必ずしも万全の態勢でなかった分、最後は伸びが止まった。結果、ソングオブウインドは4着、アドマイヤメインは8着で終戦した。
「決して万全と言える状態ではなかった中、陣営が頑張ってくれて差のない競馬に持ち込めました。良い状態で走らせてあげられれば勝ち負けになったんじゃないでしょうか……」
武幸四郎は悔しさ半分といった表情でそう言った。
早いものであれからすでに17年の時が過ぎた。この間に、幸四郎は調教師に転身したが、豊は依然、トップジョッキーの看板を背負い続けている。そして、今週末に行われる菊花賞では、ソングオブウインド同様、前哨戦の神戸新聞杯で3着だったファントムシーフとタッグを組む。果たして今年はどんなドラマが待っているだろう。
(文中敬称略、写真提供=平松さとし)