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【戦国こぼれ話】黒田官兵衛は荒木村重に捕らえられ、有岡城の土牢に閉じ込められたのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
黒田官兵衛は、本当に有岡城の土牢に閉じ込められたのか?(提供:アフロ)

 直木賞を受賞した『黒牢城』は、荒木村重に捕らえられ、有岡城の土牢に閉じ込められた黒田官兵衛が重要な役割を果たしている。官兵衛が本当に土牢に閉じ込められたのか考えてみよう。

■荒木村重の謀反

 天正6年(1578)10月、有岡城(兵庫県伊丹市)主の荒木村重が織田信長に叛旗を翻した。これまで村重は信長から重用され、摂津の支配を任されていた人物である。

 村重は反信長派の三木城(兵庫県三木市)主・別所長治と呼応し、毛利氏・大坂本願寺に与したのだった。さすがの信長も、これには大いに驚いたらしい。

 当初、信長は村重の母親を人質にすれば、この一件は水に流すとした。しかし、村重の気持ちは変わらなかった。弱った信長は朝廷を通して、大坂本願寺との和睦を模索したほどである。

■説得工作と官兵衛の幽閉

 信長は村重に翻意させるべく、蜂須賀正勝らを使者として送り込んだが、交渉は失敗に終わった。村重の強い決意を読み取ることができよう。

 最後に信長から派遣されたのが、ほかならぬ黒田官兵衛だった。この経緯を詳しく記しているのは、黒田家歴代当主の記録『黒田家譜』である。

 『黒田家譜』によると、官兵衛は主君の小寺政職が信長に叛旗を翻すとの噂を聞きつけ、翻意させるため御着城(兵庫県姫路市)に向った。

 政職は官兵衛の説得に対して、「村重が謀反を思い止まるならば、私も謀反を思い止まる」と答えた。実のところ、すでに政職は信長に謀反をすることを決意していた。

 さらに、政職は村重に密使を送り、説得に向った官兵衛を暗殺するように依頼していた。政職と村重は、すでに繋がっていたのである。

 官兵衛は、そのことをまったく知らなかった。そこへ官兵衛が有岡城に現れたので、村重に捕らえられ、幽閉されたというのである。

■幽閉中の官兵衛

 村重に捕らえられた官兵衛は、有岡城の地下に設けられた土牢に幽閉されたという。土牢とは文字どおり土でできた牢で、日すら当たらないような場所にあった。

 そのような劣悪な環境の中だったので、官兵衛の頭には醜い瘡があったという。おまけに土牢は狭かったので、官兵衛は無理な姿勢を取らざるを得ず、足腰の具合が悪くなったとも伝わっている。

 有岡城が落城したのは、天正7年(1579)10月のことだった。一年近く幽閉されていた官兵衛は、膝の関節が曲がり、頭髪が抜けて禿頭になり、生涯回復しなかったといわれている。

■土牢に幽閉されたのは事実か

 官兵衛が土牢に幽閉された記録は、後世に成った二次史料にしか書かれていない。よって、この話が史実であるか否かは不明である。

 先ほど、官兵衛は「頭髪が抜けて禿頭になり、生涯回復しなかった」と書いたが、別の二次史料には「髪の毛が女性にように長かった」と記されている。

 また、官兵衛は「膝の関節が曲がり、歩行が困難になった」と言われているが、その後、官兵衛の足の具合が悪かったと記す、たしかな史料があるわけではない。

 数次にわたる有岡城の発掘調査が行われたが、官兵衛が幽閉された土牢が見つかったわけでもない。いや、見付けることなど困難だろう。

■むすび

 官兵衛が土牢に幽閉されたという話はおもしろいが、にわかに史実とは確定し難い。『黒田家譜』は、黒田家が官兵衛の生涯を賛美する傾向がある。つまり、幽閉の一件は、官兵衛の粘り強さを称えた単なる逸話にすぎないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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