Vリーグ通算230試合出場、男子バレー深津英臣が語る「バレー愛」と「東京五輪」
「優勝と同じぐらい目標だった」
ずっと目標に掲げてきた通算230試合出場。
いわば特別な1日も、深津英臣はいつも通りだった。
試合前の準備は入念に。肩甲骨周りをほぐしてから体幹に刺激を入れ、股関節周りを広げ、ゆっくりジョグからダッシュ。身体と対話するようにじっくり時間をかけてから、ボールに触る。
おそらく何千回、いや何万回も繰り返してきた作業を当たり前、かつ丁寧にこなし、公式練習が始まる頃にはまた1つ、表情にスイッチが入る。いつも通りに迎え、勝利するためにベストパフォーマンスを発揮する。
2月20日、パナソニックアリーナでのJTサンダーズ広島戦を3-1で勝利すると、ようやく笑みがこぼれた。
「(通算230試合出場がVリーグ栄誉賞となることは)入社してから、こんな賞があるのか、と知ったんです。それからは、僕のバレー人生の中で1つの目標でもあった。長くバレーを続けたいと思っていたし、230試合出場し続けるには常にベンチに入る、レギュラーとして活躍し続ける力がないとできないわけじゃないですか。だから俺、これ取りたいな、この賞をもらいたい、って思っていたから、ついに今それが達成できる。ここまで来れたな、という思いが一番強いですね。結果的には通過点となっていくものではありますけど、でも僕の中では優勝と同じぐらい目標だったから、素直に嬉しいですね」
ライバル争いで成長も「余裕がない。バレーが楽しめなかった」
星城高校在学時から全国を制し、東海大でもセッターとして数多くの輝かしい戦績を残して来た。パナソニックに入社後も、12年限りで引退を表明していた宇佐美大輔に続くセッターとして強豪チームの新たな歴史を築いていくのだろう。そんな予想に違わず、常に期待された道を歩み続けてきたように見えるが、その道のりにはむしろ数多くの葛藤ばかりだった。深津はそう振り返る。
「入った時は宇佐美さん、大竹(貴久)さんがいる中、試合に出たいから一生懸命頑張った。少しずつ出られるようになったけれど、今度は関田(誠大)が入って来て、今も新(貴裕)とか牧山(祐介)、中村(駿介)、チーム内に自分を入れてセッターは4人もいる。常にライバルとの争いですよ。だから正直に言うと、ここまでを振り返るとバレーボールを純粋に楽しめた時期のほうが少ないですよね。遡れば高校から大学1年頃までは楽しかったですけど、試合に出る責任が与えられてからは自分でそれを余計に重くしてしまって、簡単な表現で言うなら、余裕がなかった。とにかく必死でした」
パナソニックでもリーグや天皇杯を制し、セッターとしてだけでなく主将として、チームリーダーとしても牽引。13年からは日本代表にも選出された。その結果だけを見れば、順風満帆な選手生活、セッター生活のように見えるが、深津の内心は異なる。
「勝ちたい、勝ちたいと思いすぎて苦しめていた分、負けた時に自信をなくしたり、トスの感覚がうまくいかない時にすごく悩んだり。特にここ数年はパンサーズでもキャプテン、代表でもキャプテンをやらせてもらっている以上、“勝たなきゃ意味がない”というぐらい自分を追い込んでいた。今思えば、そんなことまで考えなくていいようなところまで考えて、落ち込んで、プレーがちっちゃくなって、自分らしさがなくなっていましたね」
アジア大会の屈辱とチャンスすらなかった21年を経て
16年のリオ五輪出場を逃した翌年、17年には日本代表で主将に抜擢された。東京五輪へと続くスタートの年に日の丸をつけ、責任ある立場を担う。燃えない理由が見つからない中、チャンスをつかもうと必死で励む一方、関田と藤井(直伸)が日本代表のセッターとして出場機会を増やしていく。自分も負けていない、と証明すべく、国内では勝ち続けた。だが世界選手権のメンバーからは落選。同時期にインドネシアで開催されたアジア大会のメンバー、いわゆる“B代表”とされる日本代表の中に、深津はいた。
「見返してやる、って思っていたから、めちゃくちゃ燃えていました。絶対に勝ちたかった大会でした」
しかし、結果は5位。準々決勝でフルセットの末カタールに敗れた後、入念にストレッチをしてからミックスゾーンで取材に応じる深津の目は赤かった。言葉は丁寧に、だが抑えきれず、感情を出さぬように、と努めながらも悔しさがにじみ出る。そんな表情を見たのは、16年のリオ五輪最終予選で出場を逃した時以来だった。
19年のワールドカップもメンバーに選ばれず、チャンスの機会はより限られていく。深津にとって最後の望みが、一年の延期を経て東京五輪に向け選出された21年の代表合宿でアピールすることだったが、練習の機会が与えられることもないまま、集合した翌日に帰された。
今でこそ冷静に、時折笑いながら振り返ることもできるが、五輪への挑戦が思わぬ形で絶たれた現実を受け止めるのは容易ではなかった。何しろリオ五輪を逃がした悔しさ、当時共に戦ったメンバーの思いを果たせぬまま夢が潰えたのだから、無理はない。
だが、アピールの場すら与えられなかった悔しさは、次へ向かう力に変わったと振り返る。
「日本代表は情じゃなく、実力の世界。結果を残せるヤツが入ればいい。前の自分だったら悔しくて東京オリンピックも見たくなかったかもしれないけど、でもすごく冷静に、普通に見られたんです。特にリオを目指して一緒にやってきたメンバーには、あの悔しさを知る選手たちがどんなプレーをするだろう、とか、純粋に応援する気持ちもありました。特に清水さんが(ベネズエラ戦で)出て来て、1本で決まらず、リバウンドを取って決めたところが見られたのは、単純に嬉しかった。何より、6歳になる長男がバレーボールにハマって、試合の録画を何度も何度も見返しているから覚えちゃって(笑)。『ここ次、サーブミスするよ』とか言ってくるんですよ(笑)。僕はバレーじゃなくてバドミントンをやってほしいんですけどね(笑)」
目指した場所に立つことは叶わなかった。だが背負い続けた重荷を下ろすことはできた。
「今はバレーが楽しいんです。若くてすごい選手もどんどん出て来て刺激しかないし、もちろん勝ちたいのは変わらないけど、そう思いながらいろんなチャレンジもできている。ほんと久しぶりに、今は純粋に、バレーボールが楽しい、って思えます」
「彼は毎日もっとうまくなるために練習している」
記念すべき230試合目も、コートに立つ深津はバレーボールを楽しんでいた。
3セットの終盤、ジュースの攻防でもミドルブロッカーの山内晶大を立て続けに使った場面を「少しムキになっていた」と言いながらも、決めたい、という山内の気持ちが伝わってきた、と満足そうに振り返る。
学生時代は技術に頼り、相手ブロックを振ることに注力する場面も少なからずあったが、今は違う。苦しい時、勝負所こそ丁寧に。スパイカーの力を引き出すべく尽力する深津の姿を、東京五輪を制したフランス代表の監督でもあり、昨季からパナソニックを率いるティリ・ロラン監督も高く評価する。
「彼が代表にいた14年から知っていますが、当時から両サイド、ミドルを使うのが上手で、非常にいいセッター、私が大好きなセッターです。たまにナーバスになりすぎると判断ミスをすることや、ラリーが続いた状況で精度が落ちることもありますが、(チームに)4人のセッターがいる中、毎日毎日もっとうまくなるために練習している。ワンハンドのトスや、ミドルのAクイックはより高く、Bクイックは距離を離してさらに速く、経験深い選手であるだけでなく、勝つために毎日の練習を頑張っている。私は彼を尊敬しています」
「もっと、バレーボールを愛せよ」
積み重ねた記録の価値を噛みしめつつ、翌週にはまた試合があり、231、232試合と出場試合が増えていく。
1つの区切りで通過点に、深津は「これまで」と「これから」をどう見ているのか。
「これまでは、ガムシャラで、自分に自信がなかった。でも、いっぱい練習して、結果も出て、必死で、またいろんな経験をした。そういうのを積み重ねて、今はすごくバレーが楽しい。セッターが4人もいる中、負けたくない一心でもあるので、今もがむしゃらかもしれないですけど(笑)、でもそれも楽しい。バレーボールが大好きで、バレーボールを愛しているので、少しでも長くプレーしたい。いろんなことを学び続けたいです」
東海大時代、母校の星城高で教育実習をした時、生徒の1人だった石川祐希を「どこまで行くんだ、というぐらいものすごい」と手放しで称えながら「自分も代表を目指すという思いは以前より強くないかもしれないけれど、石川とはまた一緒にバレーをやってみたい」と楽しそうに話し、話題は次世代へと及ぶ。
世界はもちろんVリーグでも190を超える大型セッターが増える状況も「これから世界で勝つ、メダルを目標とするならば当然で必要なこと」と冷静に分析。現役大学生ながらパナソニックでプレーする大塚達宣、エバデダン・ラリー、今春筑波大へ入学予定の牧大晃など、新戦力の台頭に「とんでもないポテンシャルがある」と舌を巻く。
刺激しかない、そう言いながらも、これだけは負けない、と繰り返す。
「とんでもない能力があるのに、ハートがないヤツも多いんですよ。お前らもっと、バレーボール愛せよ、って思っちゃいますよね(笑)。僕はバレーボールを愛していますから」
夢見て追い続け、望んだ場所には立てなかったかもしれない。だが、バレーボール人生はまだまだこれから。
どうか末永く、愛するバレーボールを楽しむ姿を見続けられますように。願うのはそれだけだ。