伊達政宗を支えたベテランから新参に至る家臣団の強さの秘密
仙台市は、修復が成った伊達政宗騎馬像の「帰還記念式典」を3月31日に仙台城跡の騎馬像前で催すと発表した。今回は、政宗を支えた家臣団を取り上げ、紹介することにしよう。
政宗家臣団の骨格は、父祖代々の頃から形成されていた。政宗は家臣団を編制、強化する過程において、一家、一族、外様といった従来の家格に加え、一門、準一家を定めている。
かつて伊達成実は親類衆とされ、留守氏、石川氏は厳密に言えば家臣ではなかった。慶長年間以降、政宗は石川、伊達、留守、亘理、岩城の諸氏を一門の家格に位置付けた。
こうして有力な親族や重臣層との主従関係を一門という家格であらわすことにより、政宗の権力が確立した。彼らは、のちに伊達の姓を授けられ、別格の存在となった。
一門に続くのが一家であり、石母田、大條、梁川、黒川など、伊達氏の譜代の家臣または遠い縁戚関係にある者で構成された。実際には、一家以下が家臣団の中核として伊達家を支えた。
準一家は独立した領主層、あるいは蘆名氏の旧臣・猪苗代氏など政宗の代に仕えた家臣である。保士原氏(二階堂氏旧臣)や上遠野氏(岩城氏旧臣)は、争乱のなかで政宗に内応した面々であった。
一族は伊達氏の家臣や早い段階で政宗に従った者であり、続いて宿老、着座、太刀上、召出という家格が続いた。
一門たちは役職に就くことはなかったが、一家以下は家老職や奉行職などの藩政の要職に就き、伊達氏の支配を支えた。
彼らは仙台城の城下に屋敷を構え、領内の各所に配置された。それらは城、要害、所、在所に区分され、その制度がのちの仙台藩四十八館体制へとつながっていく。
政宗家臣団を下支えしたのは、本来は低い身分でありながらも登用された武士たちだった。その多くは養子や次男などで、父の死により幼い頃に政宗に仕えた者もあった。
彼らは政宗に見いだされ奉行職などに就くが、家格は着座などの身分に過ぎない。しかし、実権を掌握した彼らの力は、決して上位の家格に劣らなかった。まさしく政宗の生え抜き、あるいは子飼と言うべき存在であった。
政宗家臣団の構成は実に多彩であり、父祖代々のベテランから、政宗の代に仕えた新参までが高い能力を保持していた。彼らがいたからこそ、仙台藩は幕末まで連綿と続いたのである。