逆転できるリーダー、グアルディオラの信念。猛り狂う虎になったバイエルン!
チャンピオンズリーグ準々決勝、2レグ。バイエルン・ミュンヘンはアウエーの1レグを1-3と敗れており、2-0以上の勝利が突破条件で(失点するとアウエーゴール2倍)、窮地に追い込まれていた。しかし優勝候補筆頭のクラブはなんと6点を叩き込み、悠々と勝ち名乗りを上げている。
バイエルンはディフェンスラインが高いラインを保ち、中盤でチアゴが好機を作り、両ワイドに固定されたゲッツェ、ラームがサイドから攻め立て、レバンドフスキー、ミュラーが躍動した。戦術的には両サイドに選手を配置し、相手のスペースを広げ、そこに選手が入っていったことが功を奏したのだろう。造作もなくゴールを叩き込み、敵の戦意すら鈍らせ、高らかに勝利の雄叫びを上げた。
しかし、単なる戦術変更ではこの逆転劇は生まれなかった。
「自分がこうだと感じ戦い方以外、私はやるつもりはない」
2013-14シーズンからバイエルンで指揮を取るジョゼップ・グアルディオラ監督は、ポルトに敗戦後、親しい記者にだけ洩らしている。
後悔はしていない、という点で、この告白の持つ意味は少なくない。
ポルト戦の1レグ、バイエルンはあくまで主導権を持って攻める戦いを選択していた。もしポルトの前線からのプレッシングを簡単にいなし、裏に蹴り込むという戦いだったら、大敗は避けられた。あるいはリトリートして受けてから打って出るカウンタースタイルだったら、もっと楽な展開になっていただろう。むしろ、それが戦いの定石と言える。おまけにロッベン、リベリーというサイドから崩す二人が不在で、攻撃は限定的だった。
<なんて頑なな戦い方をするんだ!>
そういった批判が巻き起こるのは必然だった。
しかしグアルディオラが頑固な理想主義者であるからこそ、強敵を打ち砕くようなアタッキングフットボールが可能になるのだ。もし指揮官が屈してしまったら、集団はたちまち覇気を失う。
グアルディオラは篤実純良。いわゆる仁者である。しかし単なる人の良い性格ではない。無私な覇気で精神を緊張させている男であり、無私であることで思うままに自分を動かし、その自己をもってして集団を動かすことができる。
「サッカーとはこうあるべき」という教義的なものが彼の中心にあり、ひとたび正義と信じると、それは抜きがたい信念となり、そのために己の感情は完全に制御することができてしまう。
人柄の基調として正直さがあり、無欲で誠実なリーダーとして映る。そうした肖像が部下=選手を一つにして戦わせることを無意識に知っている。それは打算と言えるが、無私であるが故に、選手たちは迷わず付き従う。そして選手の未熟さについては、いちいち厳しいことを言う。少しの怯懦も許さない。チームを一直線に敗北に追い込むことがあるからだ。
言わば、完璧主義者であるグアルディオラのフットボールは、「ボールプレーの勝者が、ゲームの勝者にもなる」という"信仰"に特徴がある。彼は相手のプレーよりも、自分たちがいかに有機的にボールをつなげ、ゴールに迫り、ネットを揺らせるか、その技術精度や連係のオートマチズムを追求している。バルサ監督時代にショートカウンターも確立しているが、それも敵陣でボールを奪う方が次の攻撃に効率的であって勝利の手段として最適、という判断から来ている。
常に己があった上で敵があり、先手をとって勝つのが流儀と言えるか。
「勝つために相手に合わせる」
それは、彼のフィーリングに合わない。
グアルディオラは一度、心の中で物事を決定すると周囲がいくら諫めても聞かない遠慮のなさは際立つものの、采配における発想・視点は開明的、啓蒙的で驚かされる。それをやり抜く指導力は革新的。そのひらめきと実行力は比肩する者がいないだろう。己の哲学を、覇気を持って選手に伝えられ、それはチームとしての力となる。
彼はピッチに立つ11人を、一人の生き物のように動かすような采配をする。その連動によって大いなる力を生み出す。そのため、ときにエゴを見せる人間に対しては、排他的な判断・処置をする。過去にはロナウジーニョ、エトー、イブラヒモビッチらを退団させたが、その性格は陰気で頑迷とも言える。しかし、それも彼の信じる戦い方のためであって、無私の人はどこまでも非情になれる。そうして腹を括れるからこそ、選手も覚悟を決められるのだろう。
そしてポルト戦、バイエルンの選手たちはまさに猛り狂う虎のようだった。
無論、猛虎を解き放ったのは、グアルディオラなのである。