【戦国こぼれ話】新出史料が発見された浅井長政とは、どういう人物だったのか
先日、浅井長政の新出史料が発見された。淡海歴史文化研究所長の太田浩司氏は、「姉川の戦いにも再検討を迫る内容だ」と指摘した。こちら。浅井長政とはどういう人物だったのか、織田信長との戦いから確認しよう。
■浅井・朝倉連合軍と織田信長との戦い
天正元年(1573)7月26日、織田信長は巨大船に乗って近江高島郡へ出陣した。信長は陸路からも軍勢を差し向け、木戸城(滋賀県大津市)、田中城(同高島市)を次々と落し、両城は明智光秀に与えられた。
同年8月、浅井長政の配下の阿閉氏、浅見氏が信長に寝返ったので、浅井・朝倉連合軍は不利になった。同じ頃、越前の朝倉氏は余呉、木之本(以上、滋賀県長浜市)まで出陣し、信長の軍勢と戦った。
■朝倉義景の最期
信長軍が朝倉軍を蹴散らし、越前へ退却する朝倉軍を追撃した。その結果、敦賀(福井県敦賀市)付近に至るまで、朝倉軍の約3000の兵が討たれたという。討たれた将兵の中には朝倉氏の一族や重臣が含まれ、朝倉氏は窮地に陥った。
同年8月、織田軍は敦賀から越前国内に攻め込むと、義景は一乗谷(福井市)を捨てて賢松寺(福井県大野市)に逃亡した。一乗谷に住んでいた武士、町人も織田軍に恐れをなして、散り散りになって逃亡した。
その間、義景の母、嫡男・阿君丸は織田軍に捕縛され、無残にも殺害された。8月20日、朝倉義鏡(義景の従兄弟)が織田方に寝返ったことが決定打となり、最終的に義景は自害して果てたのである。
こうして、朝倉氏は滅亡したのである。
■浅井長政の最期
朝倉氏の滅亡後、信長は浅井氏の討伐に動いた。8月26日、信長は浅井氏の居城・小谷城に近い虎御前山(以上、滋賀県長浜市)に陣を敷いた。8月27日に羽柴(豊臣)秀吉が小谷城の京極丸に攻め込むと、その翌日に久政(長政の父)が自害に追い込まれた。
9月1日、小谷城が落城し、長政も自害して果てた。長政の妻のお市(信長の妹)と娘の3人(茶々、初、江)は城を脱出したが、嫡男で10歳の万福丸は織田軍に捕縛され、関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で磔刑に処せられた。
これにより浅井氏は滅亡し、軍功を挙げた秀吉には、浅井氏の旧領が給与されたのである。
■まとめ
戦後、信長は久政・長政の首に箔濃(はくだみ。漆を塗り金粉を施すこと)を施し、家臣に披露した。この逸話は、信長の残酷性をあらわす措置と見る見解もあるが、首に敬意を払った死化粧であるとの意見もある。
とはいえ、首を箔濃にした例はあまり聞かないので、家臣らは驚いたことだろう。信長に逆らえば、このようになる(首を箔濃にされる)と家臣を威圧した可能性もある。こうして信長は朝倉義景・浅井長政を討伐し、越前と近江に勢力基盤を固めたのである。
なお、新出の浅井長政の書状は、長浜城歴史博物館で本年9月5日まで展示する。こちら。