若き頃の豊臣秀吉は、主人の金を盗んで立身出世を遂げようとしたのか?
誰もが立身出世を遂げたいと考えているだろうが、不正な手段で実現しようとするのは感心しない。若き頃の豊臣秀吉は立身出世を遂げるため、主人の金を盗んだといわれているが、その点について考えてみよう。
豊臣秀吉は天下人として君臨し、関白にもなった人物であるが、出自がよくわかっていない。少なくとも武士身分ではなく、農民だったのは明らかだろう。それゆえ、武士社会に飛び込んだ秀吉は、大いに苦労した。
『太閤素生記』には、若き頃の秀吉の姿が描かれているので、確認することにしよう。天文20年(1551)頃、秀吉が仕えたのは、頭陀寺城(静岡県浜松市)主の松下之綱である。之綱は、引間城(同)主の飯尾氏(今川氏の家臣)の家臣だった。
また、『太閤記』には、秀吉が20歳頃の話を載せている。ある日、秀吉は主人の之綱から信長家中の胴丸を買ってくるよう命じられた。秀吉は之綱から黄金5・6枚を預かると、ただちに尾張国に向けて出発したのである。これは、なかなかの大金だった。
ところが、秀吉は預かった黄金を以後の立身出世のために使おうと考え、本懐を遂げたのちに、胴丸を購入して之綱に渡そうとしたのである。秀吉があとで之綱に胴丸を渡そうと考えたとはいえ、はっきり言えば横領ということになろう。
尾張国に着いた秀吉は、おじと相談して名を「木下藤吉郎」と改め、信長がいる清須城(愛知県清須市)に行くと、仕官を認めてほしいと直訴したのである。とはいえ、之綱にとっては迷惑な話である。
秀吉は、「謀略によって威名(威勢があるという名声)を振るい、国家を手にすることは勇士の本意である」と考えていた。いかに横領を疑われようとも、それが秀吉の大義名分になり、おじの賛意も得たのである。
秀吉が信長に仕えようとしたのは、おじの信長評にあった。おじは信長について、武勇の道に優れていること、賢く寛大な人物であること、農民を虐げる小人(度量の狭い人物)を憎んだことなどを挙げ、まさしく天下を取るにふさわしい人だと評した。秀吉の志も天下にあったので、信長は仕官するにふさわしい人物だった。
小瀬甫庵の『太閤記』は脚色が多く、史実と認めがたい点が多々ある。この話も秀吉の立身出世を創作したに過ぎず、裏付けとなる史料がない。やはり、一連の話は、虚説として退けるべきだろう。