歴史に彩られた京街道を歩く!伏見~墨染編
通常、東海道のコースは、江戸の日本橋から京都の三条大橋までだが、実は豊臣秀吉の時代になると、大阪まで延長されている。そして江戸時代は参勤交代時でも、西国の大名は幕府の意向もあり、朝廷のある京都に寄らずに、大津宿を出ると、山科から大岩街道を経て伏見宿へ向かった。さらにその後、淀宿、枚方宿、守口宿を経て京橋へとたどり着いたという。
この伏見、淀、枚方、守口の各宿場町を繋いでいるのが京街道だ。
今回は、伏見から墨染へとつながる京街道の華やかな区間を歩いてみた。まず伏見から北へ向かうと、最初に出てくるのは、大黒寺という薩摩藩の祈願所であった寺院だ。
こちらには寺田屋事件で命を落とした薩摩九烈士の墓や、宝暦治水の責任をとって自害した薩摩藩家老、平田靱負の墓があり、西郷隆盛と大久保利通が密談した部屋(非公開)もある。境内には金運清水という伏見の名水も湧いている。
大黒寺の向かいの金札宮は、孝謙天皇の時代、天平勝宝2(750)年に創建されたと伝わる古社。金の札が降り、我、伏見に住んで国土を守らん、という誓いが書いてあったという。
別の説では、貞観年間(859~876年)、橘良基が阿波国より天太玉命を勧請したものとも。クロガネモチの木がひと際存在感を放つ。
その北側に位置する松林寺の境外墓地には、寺田屋の女将として知られるお登勢の墓もある。
そこから北上し、橦木町エリアを目指す。橦木町は元禄時代に繁栄を極め、忠臣蔵で知られる大石内蔵助が遊んだとされる花街だ。その名残はほとんどないものの、「大石義良雄遊興之地よろづや」という石碑が往時をしのばせる。
さらに北上すると、深草少将の屋敷跡に建つ欣浄寺(ごんじょうじ)が見えてくる。深草少将は、平安前期に小野小町に対して「百夜通い」をして愛を伝えたという貴族だ。99日目にして帰らぬ人となったわけだが、この京街道のルートはこの先、大岩街道を経て小町が住んだ小野へ至るわけだから、まさに深草少将の歩いた道を辿ることになる。
次の交差点を右折し、墨染街道と重なる区間を東へ向かう。この墨染街道といえば、幕末に近藤勇が銃撃された街道でもあり、左折してしばらく進んだ京料理清和荘の前に、近藤勇が狙撃された場所を示す石碑も立っている。
そしてすぐに右手に出てくるのが、墨染寺(ぼくせんじ)だ。こちらでは上野岑雄(かんつけのみねお)が、藤原基経の死に際して「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは墨染に咲け」と歌ったことから、実際に桜が薄墨色に咲いた逸話が残っており、この話から寺名や通り名となった。
境内には4代目となる墨染桜が、近年整備されて植えられた。春はその他のソメイヨシノも満開となって、まさに「桜寺」の名にふさわしい華やかな雰囲気に包まれる。
墨染寺を出て東へ向かうと、琵琶湖疏水を越えて京阪電車の墨染駅に到着する。ここまでで約2.8キロ。ここで終えてもかなりディープな京都散策になるので、楽しんでみて欲しい。次回はこの続きを紹介する。