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「政権批判おじさん」ラサール石井の正体は最強の二番手タレント

ラリー遠田作家・お笑い評論家

ラサール石井と言えば、近年ではツイッターで政権批判を繰り返していることで知られている。若い世代では、彼がもともと芸人であることを知らない人も多いのではないか。

鹿児島の名門であるラ・サール高校の出身であることからその芸名がつけられたインテリ芸人の先駆けとも言える存在であり、クイズ番組でもインテリ枠として長きにわたって活躍してきた。ビートたけし、明石家さんまらに並ぶ「お笑い第二世代」の数少ない生き残りの1人である。

そんなラサール石井とはそもそも何者だったのか? 彼のこれまでの歩みを簡単に振り返ってみることにしたい。

ラサール石井は1955年、大阪に生まれた。子供の頃からテレビや演芸が大好きだった。ただ、クラスで一番の人気者というわけではなく、その脇にいて茶々をいれたりするのが得意だった。

明るくて面白い人はほかにもたくさんいるので、自分は芸人ではなく放送作家を目指そうと決めていた。放送作家でタレントでもある青島幸男が当時の彼の憧れだった。

高校受験のとき、地元のナンバーワン進学校である灘高校に落ちてしまい、鹿児島のラ・サール高校に通うことになった。そこから東大を目指したが、親元を離れて勉強への集中力も薄れてしまい、結局は早稲田大学に進学した。

大学では、ミュージカル研究会に所属して脚本・演出・出演を務めながら、バイトで放送作家の仕事もやっていた。そんな日々の中で、劇団『テアトル・エコー』養成所の1期生募集の貼り紙を見かけた。「1期生」という響きに可能性を感じたラサールは、これに応募して養成所に入った。

そこに1年遅れて入ってきたのが渡辺正行と小宮孝泰である。彼らは芝居の練習のつもりで自主的にコンビを組んで、コントを演じたりしていた。ラサールは仲間に入れてくれと頼み、ここに「コント赤信号」が誕生した。

その後、渋谷の道頓堀劇場というストリップ劇場から声がかかり、プロとして正式にデビューすることになった。とはいえ、仕事はストリップの司会と、幕間でコントをやることだけ。あとは裏方の手伝い、師匠の世話などの地味な仕事ばかりだった。

カネはないけど自由はある気ままなストリップ暮らしを楽しんでいた3人の若者は、そこから大きな時代のうねりに巻き込まれていくことになる。1980年に始まった漫才ブームである。

フジテレビの漫才番組『THE MANZAI』がヒットしたのをきっかけに、新しい若手漫才師が次々に現れて、瞬く間にスターへの階段を駆け上がっていった。コント赤信号は漫才ではなくコントが専門だったが、このブームに乗って人気演芸番組『花王名人劇場』に出演。それから事務所にも所属して、テレビの仕事がどんどん増えていった。

ただ、2年足らずでブームが収束すると、そこからはコンビではなく個人の時代になっていた。ビートたけし、島田紳助など、漫才ブーム出身者も個の力を存分に見せつけ、コンビ単位ではなく個人でバラエティに出るようになっていた。

コント赤信号もネタ番組の減少と共にコントを披露する機会もなくなり、個々人での活動が増えていった。ラ・サール出身のインテリというキャラクターのあるラサールは、特にバラエティ出演の機会が多かった。昔も今もインテリキャラはテレビでは重宝される。「ラサール石井」という芸名が正式に決まったのもこの時期のことだ。

そして、1989年に日本テレビで始まった『さんま・一機のイッチョカミでやんす』で、ラサールは明石家さんまと本格的に向き合って仕事をする機会を得た。自ら会議にも参加して、スタッフに逐一指示を出しながら笑いを作り上げるさんまの姿を見て、ラサールはその技術を学んだ。そして、本番ではさんまに必死に食らいつきながら、トークのテクニックを飛躍的に向上させていった。

それが生かされたのが、のちに同じスタッフで制作された『世界まる見え!テレビ特捜部』に出演したときである。今度はビートたけしを前にして、ラサールは自分がそこにどう絡んでいくかを戦略的に考え、実践していった。

ラサールは、番組でVTRを見ているときに、それを見終わった後、たけしがどんなコメントを言うのかを予測していた。そして、それと同じ趣旨のコメントは言わずに取っておき、まずは他の人がコメントをするのを見送った。その後、たけしのコメントに近いけどちょっと毛色の違う「ラサール的」なコメントで軽く笑いを取った後、たけしにオチを委ねた。プロ野球の中継ぎ投手のように、きっちり役割をこなすことにこだわったのだ。

また、わざと話題が広がるようなコメントをしたり、あまりしゃべっていないゲストがいたら話を振ってみたりといった、今で言う「裏回し」的な司会を補助するような仕事もさりげなくこなしていた。こういう部分がテレビのスタッフにも気に入られ、ラサールはトークの名手として知られるようになった。

たけしとの相性の良さも認められ、1991年にフジテレビで始まった『たけし・逸見の平成教育委員会』ではレギュラーを務めた。ここでは、インテリ芸人として好成績を残しながらも「自分だけが優勝し続けるのも良くないのではないか」と思い、意識して2位ぐらいを狙っていたという。

子供の頃から二番手ポジションが好きだったラサール。灘高に落ちてラ・サールに入り、東大もあきらめて早稲田に行った。芸能界でも、カリスマ性のある渡辺リーダーと組んで世に出て、テレビではさんま・たけしを二番手としてしっかりサポートした。

ラサールがここまで生き残ってきたのは、サポート役に向いている自分の適性を正確に把握して、それに特化した能力を磨き続けてきたからなのだ。SNSで政権批判を繰り広げるインテリ芸人の正体は、たけし・さんまの脇を固める「最強の二番手タレント」である。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行う。主な著書に『松本人志とお笑いとテレビ』(中公新書ラクレ)、『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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