【九州三国志】武将甲斐宗運の数奇な生涯!戦国の荒波を渡りし忠臣の物語
かの肥後国阿蘇神社大宮司の重臣にして、忠義の象徴とも称される甲斐宗運。
彼の生涯はまさに戦国乱世を象徴する波乱万丈の物語でございました。
宗運の物語はその生誕より始まり、筒ヶ嶽城の戦いを皮切りに数々の功績を残し、後には御船城主としてその名を馳せました。
宗運、幼名を甲斐親直といい、大永3年(1523年)には阿蘇氏の命により初陣を果たします。
菊池武包の反乱を鎮圧し、八百町の領地を褒美として与えられるという大きな勲功を立てました。
その後、天文10年(1541年)の御船房行の討伐では、木倉原の戦いで大勝利を収め、御船城主として名を連ねました。
この頃より剃髪し、宗運と号します。
宗運の名声はその忠誠心と苛烈さによって知られます。
隈庄城を巡る戦いや、黒仁田一族の粛清といった数々の逸話は、彼が主君への裏切りを許さない冷徹な戦略家であったことを物語っているのです。
特に家族といえども主家に害なす者は容赦なく討つという徹底ぶりは、戦国乱世においても異彩を放ちました。
天正年間に入り、大友氏の衰退と島津氏の台頭により、肥後国は激しい権力争いの渦中に置かれました。
その中でも宗運は大友氏への忠義を守りつつ、島津氏や龍造寺氏との外交的駆け引きを繰り返し、阿蘇氏の存続を図ります。
しかしその忠義はやがて孤立を招き、最後は毒殺説という悲劇的な結末を迎えました。
天正11年(1583年)、宗運は病死したとされますが、一説には孫娘により毒殺されたとも伝えられます。
最期に「阿蘇の地を守り抜き、天下統一者の出現を待て」と言い残した宗運。
しかし彼の死後、阿蘇氏は島津氏の圧力に屈し滅亡の道を歩むこととなりました。
宗運の生涯は戦乱の世の厳しさを浮き彫りにし、またその忠義の姿勢は現代においても語り継がれるべき物語として、今なお歴史の一頁に輝いております。