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高校野球秋の陣で優勝の明徳義塾監督・馬淵史郎という男(その1)

楊順行スポーツライター
第48回明治神宮野球大会・高校の部を制したのは明徳義塾(高知)(ペイレスイメージズ/アフロ)

「ワシ? ワシの野球人生は波瀾万丈よ」

 高知県須崎市の明徳義塾グラウンドにはそれまで何度か足を運んではいたが、馬淵史郎監督と食事しながらじっくりと話を聞く機会があったのは、2002年6月に取材に訪れたときだ。グラウンドのある横浪半島を下りて街道沿いに出ると、ここのたたきがうまいんよ、と定食屋ののれんをくぐる。で、そもそも馬淵さんの野球というのは……と水を向けると、馬淵節がとうとうと流れ出た。

「ワシはな、漁師になりたかったんよ」

 生まれ育った愛媛・八幡浜市は、太平洋につながる宇和海に面し、四国一の規模の魚市場を擁する漁業基地である。自身も魚が大好きで、

「中学を卒業して漁師になった同級生がな、1回遠洋に出て戻ってくると、たんまりカネを持っているんよ(笑)。こりゃ、ええなあと思ってね」

 だから、漁師か。いたってまじめな顔でいうから、どこまでが本気かわからない。

 1955年生まれの馬淵。愛媛の野球少年らしく、松山商に進学したかった。なにしろ69年夏、決勝の引き分け再試合を制しての優勝は、純情な少年にとって鮮烈すぎた。だが親に反対され、「三日三晩泣いて」地元の三瓶高進学を決めた。その高校時代は、河埜敬幸(当時八幡浜工、元ダイエー)、現在星槎道都大の監督を務める山本文博(当時八幡浜)とショート三羽ガラスといわれるほどだったが、甲子園出場はない。三瓶高を出ると拓大へ。大学でも1年から正遊撃手、ただしチームはずっと東都の2部。失礼ながら、エリート街道とはいいがたい。

「もう野球はええです……」

 卒業後は、伊予銀行に就職が決まりかけていた。だが野球部の休部で一転、松山の鉄パイプの販売会社に。だがそこも「上司とソリが合わずに、上司をなぐって」1年半で退社、今度はプロパンガスの会社に就職した。この時点では、野球といえばお遊び程度の軟式をたしなむ程度で、高校野球の”コ“の字もない。

 運命の分かれ道は80年のことだ。三瓶高校時代の恩師・田内逸明氏が、復活する社会人野球の阿部企業の監督に就任するのにともない、マネジャー兼コーチとして強く誘われるのだ。もう野球はええです……と二度、三度と固辞したが、口説き落とされて「では1、2年の基礎づくりだけ」と引き受けた。ところが82年1月に、その田内氏が急逝する。成り行き上、チーム最年長の馬淵が監督を引き受けざるを得なかった。26歳のことである。

「本当は松山に帰りたかったけど、自分が選手を集めてきたのに、その本人がケツまくるんか、といわれたらね。じゃあ1年だけ残るから、その間に後任の監督を探してくださいよ……いうてたのに、結局それから5年近く監督をやったね」

 社会人野球、とはいっても、警備会社・阿部企業の練習環境は、強豪チームに比べて健気なものだった。選手は、夕方の5時から夜通しの14時間労働。練習は午前9時から2、3時間がせいぜいで、専用グラウンドもなく、練習場所を求めてバスで転々とする日々だ。選手も、大企業の野球部に入れなかった雑草ばかり。まあ、企業というよりも、クラブチームに近かったかもしれない。(続く)

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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