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「どうする家康」姉川の戦いは、あらかじめ日付を決めて戦ったのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」は、姉川の戦いの場面だった。姉川の戦いはあらかじめ日付を決めて戦ったといわれているが、その点について詳しく考えてみよう。

 姉川の戦いがあった日は、元亀元年(1570)6月28日である。この日、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍と交戦し、見事に勝利を収めた。姉川の戦いは、あらかじめ日付を決めて戦ったといわれているが、それは事実なのだろうか。

 織田信長は足利義昭と相談し、事前に合戦の日を6月28日に決めて、合戦に臨んだという指摘がある。6月6日付の信長書状(武田信方宛)には、「来る(6月)28日に近江国北部に侵攻し、軍事行動を起こします」と書かれている(『尊経閣文庫』所蔵文書)。

 5月25日付の信長朱印状(両遠藤氏宛)には、「近江国北部に侵攻し、軍事行動を起こすので、来月(6月)28日までに岐阜まで参陣すること」と書かれている(「武藤文書」)。こちらも、6月28日に合戦の日を決めた根拠になっている。

 義昭は6月18日に近江国高島郡に出陣する予定だった(『細川家記』所収文書)。しかし、義昭の出陣は何度か延期され、最終的に実現することがなかった。

 当時、軍配師なる者が存在し、合戦の日時を占いで決めることがあった。つまり、姉川の戦いについても、当時の軍事慣行に倣ったもので、あらかじめ日時を定めていたと指摘されている。

 以上の見解について、明確に否定したのが淡海歴史文化研究所所長の太田浩司氏である。太田氏によると、武田氏宛の信長書状は、6月28日に近江国北部に侵攻することを示しただけで、そこで浅井・朝倉連合軍と戦うとまでは言っていないと指摘する。

 同じく両遠藤氏宛の信長朱印状についても信長が近江国北部に侵攻するので、6月28日までに参陣するよう求めただけであると指摘する。実際に信長が近江国北部に出陣したのは、6月19日のことだった(『信長公記』)。

 常識的に考えると、太田氏が指摘するように日時を決めて戦うというのは考えにくい。浅井・朝倉連合軍からすれば、「敵が待ち伏せして、何らかの作戦を講じている」と怪しむはずである。そこへ、のこのことやって来るのだろうかという疑問が残る。

主要参考文献

太田浩司「文献から探る姉川合戦」(渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』吉川弘文館、2016年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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