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統計では見えないコロナ禍 ~優等生と呼ばれたベトナム~

阿佐部伸一ジャーナリスト
ポストコロナは自転車ブームか=サイゴン川の新しい橋トゥティン2で(筆者写す)

 ホーチミン市のホテルでこれを書いている2022年6月現在、これまでに世界で5億を超す人が新型コロナに感染し、少なくとも約630万人が亡くなっている。ベトナム政府は昨年5月まで人口約9千700万人のこの国で新型コロナによる死者を35人とし、「感染対策の優等生」と呼ばれていた。第1波到来直後の20年3月から国際線を止めるなどして原則入国を禁止し、感染者と濃厚接触者の隔離と感染地区の封鎖などの強権的な感染防止対策が21年1月の第3波までは功を奏していたようだ。

 だが、第4波の昨年6月17日、感染者が全国で503人と過去最多を記録した。うち120人はベトナム最大の都市ホーチミン市(人口約900万人)での感染だった。当時のこの国のワクチン接種率はアセアン諸国の中で最低の1%ほど。そこへデルタ株が出現した。ホーチミン市では7月9日に1日の新規感染者が1千人を超したことから、市内全域をロックダウンし、約5千円から1万5千円の罰金を科す厳しい外出制限を敷いた。それでも7月24日には1日の新規感染者が5千人を突破。8月23日からは外出禁止とし、軍が食糧などを配達してまわった。そして、8月の1日当たりの平均死者数は約260人となった。この死者の数は人口あたりにすると、ニューヨーク市が最悪の状態だった20年4月に相当する。

115人民病院へ急ぐ救急車。サン医師はまだコロナの重症患者が絶えないという(筆者写す)
115人民病院へ急ぐ救急車。サン医師はまだコロナの重症患者が絶えないという(筆者写す)

 感染拡大防止のために渡航できなかった期間も連絡を取っていたベトナム人の旧友は、感染急拡大の真っ最中だった昨年9月、それまでテレビや新聞が毎日報じていた死者数が、突然報じられなくなったと伝えてきた。ベトナム保健省は今年3月になって「感染状況の実態を反映しないことから、公表継続による人々の混乱を避けるため」データの公表を取り止めると告知した。その3月には、全国でハイリスク集団にワクチンを接種したことで1日当たりの死者数を約100人に抑え、現在の医療体制で対応可能な水準に達したからだとしていた。だが、感染者数はオミクロン株の発生もあって、記録的に増加し、1日平均5万から7万5千人、最多で14万1千人となっていた。

「貸家」の張り紙だらけのシャッター街。失業者の姿も(筆者写す)
「貸家」の張り紙だらけのシャッター街。失業者の姿も(筆者写す)

 そして今年5月、ベトナムはワクチン接収証明を入国の条件に、2年2カ月ぶりに開国した。日本や欧米とベトナムの間で、ビジネスと観光での物と人の行き来は多いが、情報の行き来が少ないのは今のコロナ時代に限ったことではない。共産党が一党独裁政権を長年維持するベトナムでは、民間メディアやフリーランスジャーナリストは自由な活動ができず、体制批判になるような報道はなく、国外へ伝わって来ることもない。市民も言論統制を肌で感じていて、ジャーナリストに率直に話してくれる人を見つけるのは難しい。こうした状況下で、コロナ禍が危機的状況に突入したタイミングで政府はデータを公表しなくなった。実態はどうなったのか。なぜコロナ対策の優等生が大惨事を招いたのか。6人目にしてようやく最前線で働く医師とアポが取れたのを機に、「統計からは見えない実態」を取材すべくホーチミン市にやってきた。

 当ビデオリポートでは、そのICU科に勤務する医師を軸に、15年勤めた旅行社を解雇された女性、両親と妻を相次いで失くした三児の父親、自ら入院しながら5カ月間病院内でボランティア活動した青年に話を聞いた。証言の信ぴょう性を保つため吹き替えはせず、テロップ処理としている。また、ベトナムの隣国ではSNSに正しい情報を上げた医師が警察に連行されて処分を受けている。よって、科学者としての使命を果たしてくれたこの医師はモザイクをかけ匿名とした。

去年8月に両親と妻をコロナで相次いで失くしたグエンコックホアンさん(38)=筆者写す
去年8月に両親と妻をコロナで相次いで失くしたグエンコックホアンさん(38)=筆者写す

 今回の取材中に強烈だった印象は、コロナ被害が想像以上に深刻だったこととは別に、医師の勇気だった。「本当のことを聞きたいので、顔出し、名前出しはなしでも良いです」と言う記者に、彼は本名を名乗り、マスクを外してインタビューに臨んだ。報道することで迷惑をかけてはいけないと思い、モザイク処理したのは記者の方だ。この医師をはじめ、取材に応じてくれた人たちがいたベトナムは、ポストコロナには明るくなるに違いないと思っている。

ジャーナリスト

全国紙と週刊誌編集部、ラテ兼営局でカメラマンや記者、ディレクターとして計38年、事件事故をはじめ様々な社会問題や話題を取材・報道してきました。そのなかで東南アジアは1987年に内戦中のカンボジアへ特派員として赴いて以来、勤務先の仕事とは別にライフワークとしています。東南アジアと日本は御朱印船時代から現代まで脈々と深い繋がりがあり、互いに大きな影響を受け合って来ました。日本の人口減が確実となり、東南アジアの一般市民が簡単に来日できるようになった今、相互理解がますます求められています。2017年に定年退職しましたが、まだまだ元気な現役。フリーランス・ジャーナリストとして走り回っています。

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