ふくよかな胸も話題に――。歴史に残る名CMの撮影に使われたのは文化財の大浴場だった
昭和の名優・上原謙と大女優・高峰三枝子扮する熟年夫婦が白いスーツに身を包み、颯 爽と旅をする。
その行き先は温泉宿─ ─。
人里離れた秘湯の一軒宿を訪ね、混浴風呂で夫婦で一緒にお風呂に入る。 一世を風靡び した「フルムーン」のキャンペーンと聞けば、記憶に残っている人も多いの ではないか。
昭和五十六(一九八一)年、まだ国鉄時代に行われた伝説のキャンペーンにはポスター の逸話も残る。JR東日本の担当者が往時を回想して語ってくれたのは─ ─。
「ポスターは上原謙さんと高峰三枝子さんが混浴している写真を採用しました。そうした ら駅などに貼ったポスターが盗まれて… …、また貼っては盗まれるのを繰り返したんです。 おかげ様で、〝フルムーン夫婦グリーンパス〞チケットが爆発的に売れました」
もちろん熟年夫婦が温泉旅館で寛ぐというコンセプトが時代に合ったのだろうが、高峰三枝子さんのふくよかな胸も話題になり、週刊誌で熾烈な報道へと発展した。
「フルムーン」のCMを撮った故・大林宣彦監督が微笑みながら聞かせてくれたことがる。
上原謙と高峰三枝子がやってきたのは、群馬県法師温泉「長寿館」。
上越新幹線上高原駅から車で五〇分程、 水上温泉郷でも最奥の地に、古い木造の建物がひっそりと佇む。あたりの緑に調和した宿の玄関先には赤い郵便ポストが置かれ、建物 を繋ぐ二階の渡り廊下を右手に玄関に入るとすすの匂いが鼻孔をくすぐる。左側に囲炉裏、正面に畳の間と神棚、その脇に「フルムー ン」のポスターが掲示されていた。 宿泊棟への渡り廊下からは、こんもりとした苔が生える中庭が見えて、ほっとする。遠景の三国山脈の息を呑む美しさに目が離せなくなる。
撮影で使われた大浴場「法師乃湯」は明治二十八(一八九五)年に作られた。
立派な梁の木造りの浴場にほんのりと湯けむりが上がるその趣は、後世に残すべき日本の温泉文化 である。 しっとりと落ち着いた山のいで湯は、ふと人生を振り返りたい熟年の夫婦が旅をするに は最も適した名旅館。「フルムーン」にふさわしい宿なのだ。 ちなみに平成のお風呂映画といえば、ヤマザキマリさんの漫画が原作となった映画「テ ルマエ・ロマエ」だろう。シリーズで二本の映画が公開されているが、「テルマエ・ロマ エⅡ」では「長寿館」や「法師乃湯」が印象的に登場する。
※この記事は2024年6月5日発売された自著『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』から抜粋し転載しています。