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あまりに若くして亡くなったので、活躍の場がなかった3人の戦国武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鶴松の父豊臣秀吉。(写真:イメージマート)

 今は医療が発達したとはいえ、若い命を救うことができない例はある。戦国時代もさまざまな事情により、若くして亡くなった戦国武将がいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎毛利幸松丸(1515~1523)

 毛利幸松丸は、興元(元就の兄)の子として誕生した。永正13年(1516)8月、興元が病死したので、幸松丸が毛利家の家督を継いだ。当時、幸松丸は2歳と幼かったので、おじの毛利元就が後見人として、幸松丸を支えることになったのである。

 大永3年(1523)6月、幸松丸は鏡山城の戦いに出陣したが、合戦から戻る途中に病に罹った。翌月、あっけなく幸松丸は病死したのである。まだ9歳だった。幸松丸の死後、元就は一族の相合元網と争い、毛利家の家督を継承したのである。

◎武田信勝(1567~1582)

 武田信勝は、勝頼(信玄の子)の子として誕生した。永禄8年(1565)、信玄は嫡男の義信を謀叛の嫌疑により廃嫡すると、勝頼を次期後継者に定めた。信玄は、信勝が成人して家督を継ぐまで、勝頼が後見するよう命じたという(『甲陽軍鑑』)。

 天正10年(1582)3月、勝頼は天目山の戦いで織田軍に攻囲され、信勝とともに自害して果てた。信勝は、16歳の少年だった。戦後、勝頼と信勝の首は、織田信長家臣の長谷川宗仁の手によって、京都の一条大路の辻に晒されたのである。

◎豊臣鶴松(1589~1591)

 豊臣鶴松は、秀吉の子として誕生した。当初の鶴松の名は、「棄(丸)」といった。当時、棄て子はよく育つといわれていたので、縁起を担いでそう名付けたのである。秀吉は実子に恵まれなかったので、大いに喜んだのはいうまでもないだろう。

 天正19年(1591)閏1月、鶴松は発病したが、治療や祈禱が功を奏し、このときは治った。同年8月、再び鶴松が発病したので、秀吉は名医を集め、寺社に祈禱を命じた。しかし、その甲斐はなく、鶴松は3歳という幼さで病没したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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