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イニエスタが代表引退した夜。スペイン敗退後、ミックスゾーンで見た光景。

豊福晋ライター
イニエスタのスペイン代表最後の試合はほろ苦いものに。(写真:ロイター/アフロ)

 ルジニキ・スタジアムに「ローシヤ!」の声が鳴り響いていた。

 普段はあまり感情を表に出さないロシア人たちも、この時ばかりはと派手に叫んで騒いでいる。

 数分前、ロシアはスペインをPK戦で破りベスト8進出を決めた。スペイン人サポーターやスペインメディアの記者たちは、信じられないというような表情を浮かべている。

 試合後のスタッツが画面に映し出される。

ボールポゼッション:スペイン75% ロシア25%

シュート:スペイン24本(枠内8本) ロシア6本(枠内1本)

 延長戦を含む120分間において、スペインは試合を支配していた。ボールに触っていたのはほとんど彼らだ。しかし最終的にベスト8へ進んだのは、わずかポゼッション25%のロシアだった。

 隣をとぼとぼと歩くスペイン人記者はぐったりとしていて、顔には生気がなかった。敗退が受け入れられないのだろう。

 階段を下り、迷路のような道をすすみ辿り着いたミックスゾーンには世界中の記者がひしめいていた。ロシアメディアは国の英雄たちを、スペインメディアは悲しげな敗者を、それぞれの思いを胸に待ちわびている。

 選手はなかなか出てこなかった。

 スペイン最後のキッカー、ヤゴ・アスパスが蹴ったボールがロシアのGKアキンフェフの足に弾かれてから1時間を超えていた。

ゴールに届かなかった1029本のパス

 ようやく扉が開いた。

 顔を出したのは、アンドレス・イニエスタだった。

 白いトレーニングウェアを羽織り、首からは選手パスを下げている。パスの写真の下には、キリル文字とアルファベットでアンドレス・ルハン・イニエスタと書かれてある。

 表情は暗い。けれどそのどこかに、やりきったというような、ある種の潔さも感じられた。

 瞬時に記者に囲まれた彼は、最初にこう口にした。

「これが、僕の代表での最後の試合になった」

 2006年から12年間に及んだイニエスタのスペイン代表のキャリアの終焉は現実のものになった。

「素晴らしいひとつの時代が終わった。終わりというのは、夢に描くような素敵な形にはならないこともある。今日は僕にとってとても悲しい日だ。PK戦とは残酷なものだね。試合を通じて、僕たちはずっとボールを持っていたんだけれど・・・」

 頭上の蛍光灯が、白くなった彼の短い髪の毛を照らしていた。

 5月に34歳になった。つかの間のバカンスを挟んで、彼は日本へと飛ぶ。バルサのユニフォームも、スペイン代表のユニフォームも、もう着ることはない。

 イニエスタが言うように、スペイン代表は常にボールを保持していた。通したパスは、ワールドカップ記録となる1029本だ。成功率は91%。対するロシアは202本だけだ。しかしそれらの数字が何の意味も持たないことを、彼は誰よりも分かっている。

 スペインはボールを持てども、スペースを消す相手を前に効果的な崩しはできず、決定的なチャンスは数えるほど。得点はオウンゴールだけ。どちらかというと5バックで引いてカウンターを狙うロシアにボールを持たされている感の方が強かった。

 イニエスタは7分半話した。スペイン代表として口にする最後の言葉の数々。最後の質問は、「スペインのサッカーのスタイルはこのままでいいのか?」というものだった。

「スペインのスタイルははっきりしている。でも監督や抱える選手によってスタイルは決まるもの。これから時間をかけて分析して決めていくべきだと思う」

 イニエスタの横では、ロシア代表選手たちが歓喜の言葉を口にしている。

 悲しみのイニエスタと正反対のトーンが印象的だった。

語らない選手たち、向き合ったコケ

 スペイン代表選手は多くを語らなかった。

 イニエスタが去った後、少しずつ選手が出てきた。出場機会のなかったアスピリクエタとモンレアル。ロシア戦でも積極的にボールに絡みなんとか局面を打開しようとしたイスコ。皆無言で去っていく。カルバハルとジエゴ・コスタはイヤホンをつけ、目を合わさずに歩いていく。最初から話す気などないようだった。

 選手が連なって、早足で出てきた。

 ケパ、ブスケツ、アセンシオ、帽子をかぶったシルバに、首を振るジョルディ・アルバ。最後にPKを外したアスパスは苦笑いを浮かべて通りすぎる。

 スペインでは2018年大会を振り返るたびに、あのキックの映像が流されるだろう。一生つきまとうその宿命を、彼はまだ受け止められないように見えた。

 ピケもイヤホンをして険しい顔で過ぎ去っていった。イニエスタと同じく、彼もこれが最後の代表戦だと言われている。2年後のユーロでその姿を見ることはないだろう。

 2年ほど前、ピケは「もはや既存のメディアは強みと価値を失っている」と語り、自らメディアを立ち上げている。メディアに口を開く機会は減るばかりだ。ちなみに本田圭佑もピケのように考え、選手が発信できる新しいメディアを立ち上げるという。どの国でも今後はそんな流れになるのだろうか。

 この日はスペインの選手のほとんどが口を開かなかった。そう考えると、日本代表はまだまだメディアに対して協力的だと思う。仮に敗れたとしても、大多数が口を閉ざすことはないからだ。

 もちろん、スペインにもどんな時でもしっかりと話をする選手はいる。

 PK戦で失敗したコケは苦い表情を浮かべながらも、堂々と向き合った。

「これがサッカーだ。PKを外してしまった現実を受け入れて、これからも進んでいく」

スペインが敗れた夜、イニエスタが去った夜

 最後に出てきたのは主将のセルヒオ・ラモスだった。

 コケと並び、最も長い時間立ち止まった選手だ。彼自身は代表引退を否定する。

「君たちは僕にも引退させたがっているのか?」と、冗談さえ口にした。

「このスペインはいいチームだった。僕らの哲学、ポゼッションをベースに挑んだが、サッカーでは全ては結果だ。キャプテンとして挑んだ大会だったから、南アフリカの時みたいに優勝できれば最高だったんだけれど。これで引退する選手も何人かいる。残された選手でカタールに向けて進むだけだ」

 ミックスゾーンのひとりひとりの表情が、受け入れがたい敗戦のショックを物語っていた。

 千のパスを通した男たち。しかしそれは報われることはなく、翌日には悲しみとともにスペインに戻る。

 一部で提唱されているように、スペインサッカーのスタイルは変わっていくのだろうか。今後、検証と議論は深まるだろう。

 スペインは敗れ、イニエスタは祖国のユニフォームを脱いだ。12年が経ち、彼が築いたひとつの時代が終わった夜でもあった。

ライター

1979年福岡県生まれ。2001年のミラノ留学を経て、ライターとしてのキャリアをスタート。イタリア、スコットランド、スペインと移り住み、現在はバルセロナ在住。伊、西、英を中心に5ヶ国語を駆使し、欧州を回りサッカーとその周辺を取材する。「欧州 旅するフットボール」がサッカー本大賞2020を受賞。

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