「ずっと騙されるばかり」〜四川大地震から10年で中国が失った信用とは
ちょうど10年前の2008年5月12日。パンダの故郷でもある中国の四川省をマグニチュード8級の強い地震が襲った。死者不明者は8万人以上。中国政府は、復興に全力を注いだ。そして3か月後には史上初の中国開催となる北京オリンピックを無事成功させ、「大国」を印象づけた。その2年後にはGDPで日本を抜き、経済規模で世界第2位に躍り出た。しかし、この間、変わらなかったモノが少なくとも1つある。それは、我が子を奪ったのは地震ではなく、「おから工事」と呼ばれる学校の手抜き工事ではなかったのか、という親たちの疑念だ。
◆ 愛国教育基地になった地震の遺跡
4月。四川省の大都市、成都から陸路でブン川県(ブンの文字はさんずいに文)に向かった。アバ・チベット族チャン族自治州という少数民族が住む地域にあり四川大地震の震源地である。10年という月日が経ち、さすがに道中で、震災の名残を目にすることはなかったが、震源近くにある中学校は、地震を記念する遺跡として損壊した姿がそのまま残されていた。
元々5階建てだった校舎は、地面に右側に大きく傾き、建物の半分くらいが地面にのめり込んでいるかのように見えた。そして本来、人が立つ地上からは見えるはずのない、長方形の巨大な屋上がこちらを向いている。学校の敷地には順路が示され、校舎以外の建物なども見て回れるようになっている。その日も多くの観光客が訪れていた。
小学生らしき集団を引率している女性ガイドの声が否応なしに届いた。少数民族の衣装をまとったそのガイドは、この地域の住居や建物が、壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、見事に復興したことにちょうど触れていたようだ。
「共産党の指導がなければ、このようないい環境はありません」
震災の傷跡は、共産党と国が復興に尽力したことを示す愛国教育の拠点として残されているのだ。
◆ 被災した母校のガイドに
ここで、1人の若い女性に出会った。馬紅霞さん(26歳)。地震発生当時は中学校3年生。自らもこの学校で3、4時間生き埋めになり、その後先生や同級生らの手で助け出されたという。今は、被災者として当時の様子を伝えるため、そして何より生活のためにこの母校でガイドをしている。「この土地に観光業が成り立つなんて思ってもいませんでした」と明るく笑う。
馬さんが、校舎の裏側に回り、当時授業を受けていたという教室を教えてくれた。本来ならベランダか通路があったはずの教室の側面部分が仰向けになっている。その側面は、すっかり土砂で埋まり、草が茂っていた。教室があったのは3階だったというが、2階から下の校舎は潰れてしまってほとんど原形をとどめていない。
馬さんは窓を乗り越えて逃げ出そうとしたという。しかし、その瞬間に建物が倒れ、同級生らと一緒に生き埋めになってしまった。体は全く動かせなかったが、互いに声をかけ合うことができたというのは、せめてもの救いだった。
「互いに励まし合いました。泣かないで、騒がないで、体力を温存しようと。目は開けないで、と。目にも喉にもほこりが入ってしまいましたから」
この学校では、建物がペチャンコに潰れることはなかった。馬さんによれば、校舎が前に倒れたため、教室のあった校舎の背面には生存できる空間ができたという。
◆ 鉄筋に救われた命
馬さんたちが新しくできたこの校舎に引っ越してきたのは、地震の2年前。馬さんが歩きながら、「柱のところをみてください」と指をさす。禿げたコンクリートから、何本もの鉄筋がむき出しになっている。晒された鉄筋は、倒れようとする巨大なコンクリートの塊を必死に支えるかのように湾曲していた。
「鉄筋や鉄骨がたくさんはいっているでしょう。この学校で建築の質の問題は、一切ありませんでした」
この学校では教師も含め合わせて55人が犠牲になった。その中には馬さんの同級生3人も含まれる。しかし、震源地に近いこの地域にある学校の中では、最も被害が少なかったという。
「生死を共にしたから、同級生たちとは感情の絆が強くなりました。亡くなった同級生もいるわけですし、その時のことを思えば、いまは本当に幸せだし、どんな辛くても乗り越えられないハードルなんてありません」
馬さんは髪を栗色に染め、きちっとメイクもしている。楽しい盛りの大学生くらいに見えなくもないが、すでに娘が1人いるという。「え、結婚しているのですか?」素直に驚いた私に、馬さんは「だって、もう26歳ですよ」とケラケラと笑う。確かに中国の地方では結婚が早い。紙一重で生死を分けた体験を聞いた後だけに、笑顔が本当にまばゆかった。
◆ 沸き起こった「おから工事」疑惑
四川大地震での死者行方不明者は合わせて8万人以上。発生が午後2時28分だったため、多くの子供達が学校で命を落とした。
四川省の発表によれば、学生の被害者は5300人余り。しかも、いとも簡単に脆くも崩れ落ちた校舎が多かった。そのために、学校の建築の質に問題があったのではないかと疑いが生じた。コストを下げるために建築資材や鉄筋を減らす手抜き工事を、中国では豆腐カスのような工事、すなわち「おから工事」と呼ぶ。賄賂が横行する中国では、そでの下を捻出するために資材費を浮かすなどはあり得る話だし、今日にいたるまで、ビルや橋が突然崩れおちるという事故が、中国各地で多発している。
中国政府も当初はこの問題を看過できないと思ったようである。日本の国土交通省にあたる住宅都市農村建設省の姜偉新大臣は、5月16日に北京で開かれた記者会見の席で、「手抜きや材料のごまかしが調査で見つかれば、厳粛に取り締まる」と述べている。
しかし、現実には、嘆願書を握りしめ真相究明を訴えようと集まった親たちが、地元警察と衝突し、挙句の果てに力で押さえ込まれるなどという光景が被災地で度々目撃された。
そして地震からわずか1年後の2009年5月7日、四川省で開かれた記者会見で、同省建設庁の楊洪波長官は「これまでのところ、建築の質が原因で建物が倒壊した例は見つからなかった」と発表した。幕引きを図ったように見えたが、一瞬で瓦礫の下敷きになって我が子を失った親達の疑念は、何一つ解消されなかった。
◆ 多くの子供が眠る共同墓地
中国には清明節という祭日がある。日本のお盆のようなもので、先祖の墓を参り、墓の手入れをする。
今年の清明節となった4月5日。被災地の1つ漢旺鎮に向かった。小高い山を車で登ると、決して広くはない車道を歩いて登る人たちの姿もちらほら見えた。その先には四川大地震で亡くなった人の共同墓地がある。
共同墓地といっても、直径20メートルくらいの円形に盛られた土の山だ。土が剥き出た部分には雑草が茂っている。山そのものはもう少し高いが、その側面は2メートルくらいの高さで、名前の刻まれた石板や墓石が張り付くように並んでいる。
同窓生を亡くしたという2人組の中年男性がいた。死者の名前が刻まれた石板の前で蝋燭を灯し、お金を模した紙片を炎にくべる。死者が冥土で使うお金に困らないようにという意味がある。
1人が火のついたタバコを挟んだ指で、小さな瓶の蓋をひねり、中に入った透明の液体を墓の前にふりかける。中国特産の蒸留酒、白酒である。日本で言えばワンカップ大関を供える心情だろう。日に焼けた中年男性が黙々とその作業をしているのが、却って心に沁みた。
この共同墓地は、実際に遺体をまとめて埋めた場所である。遺体を並べて、消毒のための石灰を撒き、さらにその上にも遺体を重ねていったという。地元の人は、数千人から1万人が埋葬されていると言うが、本当の数は誰もわからない。地震から数年間はまだ腐臭が漂っていたが、今では雨に濡れた土の臭いがするだけだ。
ここに並ぶ墓石の多くには、東汽中学と刻まれている。名前は中学だが、高等部も併せ持つ地元の学校である。共に記されている生年はいずれも90年代だ。被災時に18歳以下の少年たちである。この墓地に眠る1人の少年の両親を訪ねた。
◆ 1人息子を失い養子を育てる夫婦
東汽中学の高等部2年生、18歳で死亡した李長青君の両親が住む家は、細い農道の先にある大きめの平屋だった。
居間に通されると、別の部屋からピンク色の服を着て目のくりっとした愛らしい少女が顔を出した。年齢を尋ねると、7歳の小学1年生。白髪の目立つ両親からは、少し幼すぎる感じがある。長青くんの両親は、一人っ子だった息子を失った3年後、このトウ傑ちゃん(トウの文字は火へんに同)を養子にしたという。
居間に座って話を聞いているうちに、長青君の写真を見せてくれた。黒いポロシャツを着て友達と一緒にうつっている。鼻の下にはうっすらと濃くなりはじめたヒゲが生えている。切れ長の目は精悍ながらも、優しそうに微笑んでいる。
「ハンサムでしょう、背も高いし。とてもハンサムでしょう」
父の李孟廷さん(52歳)は、そう言って写真を見つめる。写真の日付は地震の3日前の5月9日。息子の最後の写真となった。
母の廖悦芳さん(51歳)は、地震で崩れた学校の様子を次のように説明する。
「(学校の建物は)赤いレンガを積み重ねてその上に天井が乗っていただけです。駆けつけた時には、天井が全部崩れていました。息子は頭を打ってその場で死んでいました。脳が出ていました」
◆ 学校を修理するはずの金はどこに?
李さん夫婦をはじめ、東汽中学で子供を失った親たちの多くも、やはり学校の建物の強度に問題があったのではないかと疑っているという。本来、老朽化した学校の修繕に使うはずのお金を地元政府が流用したという疑いが持たれていたからだ。
「何を修理したのか?学校のことはどうなったのか?それに対し親たちは皆不満を持っています」
李さんたちは、真相を求めて来たがこれまで地元政府からは、何ら説明は得られていない。そればかりか陳情に行こうとすれば、捕まり、毎年、清明節や地震の起きた5月12日近くになると、地元当局から電話がかかってきて『どこかに行くつもりか』などと尋ねられるという。
李さんは話しているうちに興奮してきたようだ。声を荒げる。
「私たちはおとなしく政府に従っていますが、ずっと騙されるばかりです。(地元政府は)私たちが騒がず、陳情に行ったりせず大人しく暮らしていればいいと思っているのです」
◆ 「昔のことは追及できないし、方法もない」
そうした環境の中で、時が経つにつれ、究明を強く求める親の声はだんだんと減っていった。「人々の気持ちが揃わなくなってきた」という。それは李さんたち自身についても同じだろう。
今の李さん夫妻にとって、まだ幼いトウ傑ちゃんが気がかりだ。真相の究明よりも、自分たちが年老いた後も、娘の生活が困らないよう、政府に保障してもらいたいと考えるようになったという。
「過去のことを全て一気になくすことはできないけど、徐々に薄めようとしています。昔のことは追及できないし、追及する方法もありませんから」
◆ 「おから工事」を告発。有罪判決を受けた男性
学校での被害を独自に調査し、「おから工事」の疑いを告発してきた人物がいる。四川省成都に住む譚作人さん(63歳)を訪ねた。譚さんが、茶封筒を取り出した。2枚重ねて畳まれていたA4サイズの紙を広げると、子供たちの死亡の状況などについての質問が印刷されていた。親たちに配ったアンケートだった。
「これが当時のアンケートです。一部分しか見つかっていません。あとは全て没収されました」
譚さんは、「おから工事」の調査を進めていた2009年の3月に成都の警察に身柄拘束される。その際、集めた資料はほとんど没収されたという。翌年2月に国家政権転覆扇動罪で、懲役5年の有罪判決を受ける。裁判で「おから工事」の調査について触れられることはなかったというが、だからと言って、おから工事の調査と、譚さんが捕まり有罪判決を受けた事態に関連がないとは言えない。中国の裁判は政治の意向を組むからだ。譚さんは2014年に服役を終え、釈放されたが、少なくともその間、譚さんの口が封じられたわけだ。
先にも触れたが、四川省は「建築の質の問題はなかった」、と結論を出している。しかし、譚さんはその結論を出すための「調査も研究も行われていない」と断言する。
◆ 3〜4秒で倒れた学校
「ある人たちは3秒、ある人たちは4秒と言っていた。2回揺れただけで崩れたと。現場にいた親たちの話では、2回ほど揺れただけで崩れたそうだ。建築材料に問題がなく、おから工事でないならば、10数秒か20秒くらいは保ったでしょう。そうすれば、どれだけの子供が逃げ出せたか」
親達もその結論に納得したわけではなかった。中国で為政者は社会の安定を重視する。真相究明を訴える親達は、不安定要素とみなされ、地元当局の監視に遭い、その声を上げることすらできない現状があるという。
「亡くなった子供のために訴えるのを諦めない限り、監視の対象になります。農村での監視される人がどのような日々を送るかは、よく分かるでしょう」
親達は子供を失った痛みを抱えながら、その鬱憤を晴らすこともできない。さらに地元当局からは監視や脅迫、時には身柄拘束の対象になる。譚さんは、子供を失った親たちは「多重被害者です」と噛み締めるように言う。
◆ 習近平への提言書
ただ譚さん自身は、親達が陳情やデモを繰り返したところで押さえ込まれるだけで、何も解決できないと考えている。法律に基づき、当局が受け入れられる穏やかな方法で、追及を続けるべきだという。その1つが、「提言書」である。何ページかがホチキスでまとめられた冊子のような形式だが、最初のページには、宛名として、習近平国家主席や李克強首相といった現国家指導達の名が記されている。
「主な中身は1つだけです。国家の指導者に対し、国家調査チームを設けて、いったい『おから工事』が存在したのか、責任を取るべき人がいるのかどうかを明かすよう求めています」
その「提言書」には、地震から10年を節目に、子供たちが死んだ本当の原因を明かし、正義を示してあげるべきだと綴られている。
「512(四川地震)を、国家が自ら褒め称える業績としたいならば、問題を残してはなりません。それは校舎の問題です」
真相が分かったところで、亡くなった子供たちが返ってくるわけではない。しかし、真相を求める声をかき消され、無念を抱えながら耐えてきた親達は、我が子のみならず、この10年の間に国に対する信頼さえ失ったのである。