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桜吹雪舞う前の「美しき花相撲」。もうイチローは帰ってこない

阿佐智ベースボールジャーナリスト
引退記者会見場を後にするイチロー(写真:ロイター/アフロ)

 「2019MGM MLBオープニングシリーズ」が終了した。まさに、イチローのためにあった舞台だったと言っていいだろう。多くの人が内心思っていたように、昨年5月に選手契約を解除された時点ですでにこのシリーズへの出場が決まっていたようだ。マリナーズとしては、昨シーズン開幕直前、けが人もあり、一縷の望みをかけて当時44歳の老雄と契約してみたものの、もはやメジャーの舞台では戦力にならないことを見て取り、それでも、このレジェンドのプライドを何とか保たせようと、このシリーズまでの「猶予期間」を与えたのだろう。  

 そして今年、オープン戦初戦にタイムリーを放ち、その次の試合では盗塁まで決めたが、その後の結果を踏まえて、イチローは自ら身を引く覚悟を決めたようだ。来日後の巨人とのプレシーズンマッチを含め、.065という成績は、メジャーの第一線でプレーする選手のそれではなかった。

議論を巻き起こした公式戦開幕での「引退試合」

日本で7年ぶりに開催されたMLB公式戦
日本で7年ぶりに開催されたMLB公式戦

 今回がイチローの「引退試合」になることを事前に告知すれば、もっと盛り上がったのにという声も聞かれるが、ペナントの行方が半ば決まったシーズン終盤ならいざ知らず、これからワールドチャンピオンを目指そうという開幕シリーズに、「戦力外」となった選手を出場させることを公言はできなかっただろう。かと言って、興行的には、このシリーズの主役を直前に舞台から降ろしてしまうことは、チケットを買ったファン、各種スポンサーを裏切ることになる。真剣勝負のトップスポーツリーグとしての品格と興行としてのプロスポーツのギリギリのバランスの上に今回のシリーズは存在した。

 そう考えると、サービス監督の気苦労は計り知れない。打撃面においては、イチローがもはや戦力にならないことは素人目にも明らかだった。ヒットが出ないあせりも大いに影響していたのだろうが、左肩が開き、ドアスイングで振り遅れるその姿に正直もう余力は残っていなかった。第2戦、第4打席まで立たせたることには相当の辛抱が必要だっただろう。「花相撲」と「真剣勝負」のはざまで、連勝を飾ったその采配は、見事な演出だったと言っていい。

 イチローの存在なくして、7年ぶりの開催となった今回のMLB開幕シリーズが、これだけ盛り上がることはなかったのではないか。菊池雄星のマリナーズ入団という「追い風」はあったものの、イチローが出場する、しかも、これが事実上の引退試合になるかもしれないという話題性がなければ、チケットを売りさばくことは難しかったかもしれない。

イチローのための日本開幕シリーズ

開幕戦の始球式には日米のレジェンドが顔をそろえた
開幕戦の始球式には日米のレジェンドが顔をそろえた

 20日の開幕戦、イチローはスターティングラインナップに名を連ねた。この試合の始球式には、マリナーズでのかつての同僚、佐々木主浩、城島健司、それにイチローと入れ替わりでマリナーズを去ったアスレチックス黄金時代のリードオフマン、リッキー・ヘンダーソンが登場した。さらには、イチローがメジャー挑戦前にあこがれていたというマリナーズのレジェンド、ケン・グリフィーJr.(彼は翌日21日の始球式をアスレチックスOBの藪恵壹、岩村明憲とともに務めた)がそれを見守るという豪華布陣にこの試合の意味を悟った人も多いだろう。

 そして、9番ライトという位置は、すでに彼が「戦力外」であることを示唆していた。それが疑いようのない事実であることは、4回表の第2打席に四球で生涯最後の出塁を決めた後、彼が退いたことで誰の目にも明らかになった。それもそのまま退くのではなく、4回裏に一旦ライトの守備位置についた後、「エリア51」とも称されたその守備位置から3塁ベンチまでの「花道」をチームメイト、相手チームの拍手に包まれながら戻っていくという「セレモニー」まで行われた。試合後の、「チームにとってベストなことをしたかった」というマリナーズ・サービス監督の談話は、イチローがもはや勝つための戦力ではないという事実にダメを押した。

 私は東京ドームでこのイチローの退場シーンを見ながら、この日を最後にイチローはフィールドを去ると思った。第2戦の先発は菊池雄星。興行的にもチケットを買ったファンを裏切ったことになるまい。なによりも、よろけながらバットを振っているようにも見えるイチローの姿は、悲しいかな、メジャーの舞台はもはや相応しくなかった。

 試合後、スマホの画面には、イチローを翌日も起用する旨のサービス監督の談話が映し出されていた。少しほっとしながらも、翌日もまたあの痛々しい姿を見るのかと思うと少し気が重くなった。それでも、あのイチローなら、最後になにかしてくれるのではないかとも一方では思いながら、3月21日は、代打か試合終盤の守備での出場になるだろう老雄の最後を見届ける夜になることを確信した。

覚悟を決めて臨んだ開幕戦だったが、イチローは2打席ヒットなしで交代となった
覚悟を決めて臨んだ開幕戦だったが、イチローは2打席ヒットなしで交代となった

レジェンドの幕引き

 3月21日、第2戦目の試合前、東京ドームに向かう人波からは、「イチローの引退試合」という声がチラホラ漏れ聞こえてきた。観客の多くは、そういう認識だっただろうと思う。前夜の「セレモニー」を見せられて、そう思わない人の方が少なかったはずだ。試合1時間前、着いた席は内野一塁側下層スタンドの一番端、もう外野席と言っていい場所にあった。試合が始まると、目の前には背番号51があった。私の予想に反して、サービス監督はこの日もイチローをスターティングメンバーとして起用した。

2試合ともイチローはスターティングラインナップに名を連ねた
2試合ともイチローはスターティングラインナップに名を連ねた

 しかし、スタンドの熱気とはうらはらに、イチローのバットから快音が聞かれることはなかった。イチローが打席に立つと、スタンドは総立ちになった。そして凡退した後の一瞬の静寂。ここままイチローがフィールドに出てこないのではないかと心配する観客の視線はダグアウトに注がれる。そして彼の姿がライトに照らされると、安堵の後、大歓声が湧いた。

とくに前夜彼が退いた第2打席の後は、一種異様な空気に包まれた。稀代の天才打者最後の打席になるかもしれないその打席の直前、彼が引退を自ら申し出たというニュースが配信された。これにスタンドがざわついたという報道もあったが、少なくとも私の周囲の観客は目の前のゲームに夢中で、あのニュースにより雰囲気が変わったということはなかった。イニングの合間にスマホを取り出す人がちらほらあり、私自身はたまたま目に入った隣の観客のスマホの画面によりそれを知ったが、その時もスタンドの様子が変わったとは感じなかった。この試合でのイチローの引退は、すでにスタンドのファンにとって規定の事実になっており、今さら驚きをもって迎えられるようなことでもなかったのだ。

 その第2打席が終わった後、イチローが守備位置に現れると、ファンの熱狂は最初のピークに達した。ライトスタンドに陣取った「世界一のイチローファン」、エイミーさんが「ありがとうイチロー」のボードを掲げる姿がビジョンに映し出されると、この日集まった4万6451人の観衆は全てを悟った。この瞬間、このMLB公式戦はイチローの引退試合という「花相撲」に変わった。しかし、ここでイチローが退くことはなく、イニング前のキャッチボールが終わり、プレイボールがコールされると、スタンドはある種の安堵感に包まれた。

 4回裏を終わって、3対0でマリナーズのリード。先発の菊池雄星の好投を考えると、彼がこのままアスレチックス打線を抑え、マリナーズがリードを広げれば、イチローを下げる必要がなくなる。イチローの姿をゲームセットまで見届けたい。スタンドの思いはマリナーズの追加点とこの日デビューを飾った先発投手の好投へ傾いていった。皮肉なことにイチローは勝つためのピースではもはやなく、イチローをフィールドに置いておくために他のメンバーが奮闘せねばならないという、彼が不本意とする状況が生み出されていた。

第2戦、イチロー「最後のヒット」に期待が集まったが、安打は出なかった
第2戦、イチロー「最後のヒット」に期待が集まったが、安打は出なかった

 しかし、野球の神様は意地悪だった。5回、菊池はアスレチックスの下位打線に捕まる。先頭打者から連続安打の後、菊池は何とかアウトを2つ取るが、ともにライナー性の打球。メジャー初登板の疲労が早くも出てきているのは明らかだった。打順が先頭にかえり1番セミエンの打席、3ボール2ストライクから投じられた真ん中高めのボールを昨シーズン161安打のリードオフマンはセンター前にはじき返した。1点を失った菊池をベンチはあきらめたが、荒れ模様のリリーフ、エリアスは代わり端のピッチャーゴロを悪送球し、さらに1点を失った。この時スタンドから漏れたため息が、試合の趨勢よりもイチローの交代を恐れたものによることは、7回表のマリナーズの攻撃の際の空気が物語っていた。

 この回先頭の8番ヒーリーがツーベースで出塁したあと、イチローが打席に向かうと、代打が送られるのではないかとスタンドの空気が固くなった。彼がバッターボックスに向かう際の一瞬のホッとした間の後、スタンドのボルテージは2回目の頂点に達した。しかし、この打席は見逃し三振。後続が何とかこの回1点を追加したものの、点差は2点。イチローが打席を重ねれば重ねるほど、もはやメジャーの舞台に立つ余力がないことを見せつけられる観衆は、今度こそ最後ではないかと、攻撃が終わり、ライトの守備位置に走るイチローを目で追いかけ、総立ちでイチローコールを送ったが、この時も、何ごともなかったかのようにキャッチボールが終わると、スタンドからは再び安堵のため息が漏れた。

 しかし、この回、アスレチックスは同点に追いついた。この試合が単なる花相撲などではなく真剣勝負の公式戦であることをスタンドのファンは思い知らされた。

 そして8回。前の回の打順の周りが良かったこともあり、イチローに4度目の打順が周ってきた。1点差で2アウトランナー2塁。代打を出すべき場面であることは、スタジアム中のファンがわかっていた。しかし、サービス監督は、日米通算4367安打のレジェンドをそのまま打席に送った。

 2009年のWBCの決勝が私の脳裏に浮かんだ。あの大会、スランプに襲われたイチローだったが、決勝の土壇場で、優勝を決めるセンター前タイムリーを放った。きれいなライナー性の打球はまるでバックスクリーンのテレビカメラを目指すかのように大きくなってテレビ画面に迫ってきた。ここであのきれいな白糸のような線を描くセンター前ヒットを見ることができるのではないか。

 しかし、高校時代「センター前ならいつでもヒットを打てる」と言っていた野球少年の姿は、もはやなかった。全盛時ならセンター前に抜けていたのではと思わせるゴロは力なくショートストップのグラブに収まった。ゴロの遅さにショート、セミエンはジャンピングスローでファーストに送球。一瞬イチローの足が早いように見えたが、一塁塁審は一拍置いてアウトのジャッジを下した。

世界一のヒットメーカー最後の花道

 この攻撃が終わった後も、総立ちでスタンドはイチローを見守った。9回までに試合が決まるようなら5打席目が回ってくる確率は限りなく低い。打撃はともかく、守備で彼にかなう選手はベンチには残っていないだろう。他の野手の登場が遅く、イチローだけが真っ先に守備位置についたのが気にはなったが、あとからフィールドに出てきたセンターとのキャッチボールも無事終了し、スタンドから三度安堵の声が漏れた。そして、いよいよ8回裏に入ろうかというその時、球場内の時が止まった。

 ベンチに再び引き上げるマリナーズナイン。アスレチックスベンチからは誰もフィールドに出ていない。東京ドームのフィールド一面が「エリア51」になった瞬間だった。スタンドを埋めたファン、報道陣、中継・配信放送を観ている全世界の人々が、稀代のヒットメーカーの幕引きを理解した。イチローは、ベンチまでの長くて短い「花道」をゆっくりゆっくりと小走りで進んでいった。私にはその時間が果てしなく長く感じらるた。その小さくなっていく背中を見ながら、彼が本名の鈴木一朗に戻っていくのを感じた。

背番号51をもう見ることはない
背番号51をもう見ることはない

 

 数々の金字塔を打ち立ててきた天才打者は、4368本目のヒットを打つことなくバットを置いた。最終シーズンとなった今年の.000は、ある意味、彼がすべてをやりつくしたことの証であろう。

 母国・日本を愛して止まなかったイチローは、少し早めの桜吹雪を散らせるがごとくフィールドを去った。 

 

(文中の写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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