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「オセアニアのサムライ」松本光平と「60番目のJクラブ」高知ユナイテッドSCの邂逅がもたらすもの

宇都宮徹壱写真家・ノンフィクションライター
2021年の松本光平。『前だけを見る力』のカバー用にJ-GREEN堺にて撮影。

 1月5日、J3の高知ユナイテッドSCは、松本光平の入団を発表した。といっても、その名を知るサッカーファンは、それほど多くはないだろう。そもそもプロフィールが、非常に謎めいている。クラブの公式サイトから引用しよう。

【サッカー歴】
オークランド・シティFC(ニュージーランド) → ホークスベイ・ユナイテッド(ニュージーランド) → レワFC(フィジー) → ワイタケレ・ユナイテッド(ニュージーランド) → マランパ・リバイバース(バヌアツ) → ハミルトン・ワンダラーズ(ニュージーランド) → ヤンゲン・スポール(ニューカレドニア) → デウソン神戸(フットサル・Fリーグ) → ハミルトン・ワンダラーズ(ニュージーランド) → ソロモン・ウォーリアーズ(ソロモン諸島)

 ニュージーランド、フィジー、バヌアツ、ニューカレドニア、ソロモン諸島。OFC(オセアニアサッカー連盟)は13カ国が加盟しているが(FIFA加盟は11カ国)、5カ国でプレーしている日本人選手は、松本光平をおいて他にはいない。ゆえに私は、彼のことを「オセアニアのサムライ」と呼ぶ。

 一方で松本光平は、高校卒業後に海外へ出て以降、日本でのプロ経験はない。2022−23シーズンはFリーグ2部のデウソン神戸、そして(プロフィールには記載がないが)2011年と12年にはJFLでのプレー経験もある。しかし、日本での11人制サッカーのプロ(つまりJリーグ)でのプレーは、35歳にして初めてとなる。

 だが、もっと特筆すべきことがある。それは、松本光平が不慮の事故により、視覚障がい者となっていることだ。死に物狂いのリハビリで、ピッチに復帰することができたものの、今でも右目はほぼ失明状態。左目の視力も0.03程度しかない。

 つまり松本光平は、史上初となる「視覚障がいを持つJリーガー」となったのである。

目の怪我による長期のリハビリを経て、Fリーグで復帰した松本光平。しかし彼のゴールは、この先にあった。
目の怪我による長期のリハビリを経て、Fリーグで復帰した松本光平。しかし彼のゴールは、この先にあった。

■ユニークなキャリアの背景にあったもの

 松本光平は1989年5月3日、大阪市で生まれた。ジュニアユースはセレッソ大阪、そしてユースはガンバ大阪に所属している。余談ながら2004年当時、たとえ下部組織であっても、セレッソからガンバへの移籍は前代未聞のタブーだったそうだ。

 そのガンバでは、トップチームへの昇格はならず。単純に競争が激しかったこともあるが、右肩の脱臼で高3のシーズンのほとんどを棒に振ったことが大きかったようだ。大学進学の話もあったが、彼が向かったのは英国。ただし、アテもツテもないままの海外雄飛であった。

 今でこそ、海外でプレーする日本人選手は、まったく珍しくなくなった。けれども松本光平が渡英した2008年、日本代表に招集された海外組は、中村俊輔や長谷部誠や本田圭佑など6名を数えるのみ。これだけを見ても、どれだけ松本光平の海外志向が破天荒なものだったか、容易に理解できよう。

 その後、アメリカやタイやオーストラリアで所属チームを探し求め、ニュージーランドのオークランド・シティFCに迎えられたのは2014年。日本を飛び出して6年、ようやくオセアニアで活躍の場を得ることとなる。

 以後、松本光平はニュージーランドのクラブに所属しながら、OFCの大会に出場する島国クラブで短期的にプレーし続けた。2019年には、オセアニア王者となった、ニューカレドニアのヤンゲン・スポールの一員として、FIFAクラブワールドカップへの出場も果たしている。

2020年、フィジカルコーチの吉道公一朗氏(当時FC東京)の指導を受けて、リハビリに励む松本光平。
2020年、フィジカルコーチの吉道公一朗氏(当時FC東京)の指導を受けて、リハビリに励む松本光平。

■視覚障がい者となってからの2つの目標

 2020年5月18日、松本光平を突然の悲劇が襲う。ニュージーランドの自宅でトレーニング中、筋力強化用のゴムチューブの留め具が外れ、飛んできた金具が右目を直撃、さらにチューブが両目をしたたかに打った。

 緊急帰国して目の手術を受けたものの、松本光平は視覚障がい者として生きることとなる。言うまでもなく、フットボーラーにとって目の怪我は致命的だ。それでも彼は、ピッチに復帰することしか考えなかったという。

 かくして、孤独で地道なリハビリがスタートする。まっすぐ歩くことから始まり、ランニングやボールを使った動き、さらには大学やユースの練習にも参加して、ついには11人制のトレーニングマッチにも出場。怪我から半年後には、ほぼトップフォームに戻している。

 視覚障がい者となってからの松本光平には、2つの明確な目標があった。まず、クラブワールドカップに再び出場すること。そして、視覚障がいを持つ選手として、Jリーグのピッチに立つこと。

 このうち前者については、古巣のオークランド・シティに復帰する形でチャンスがあったものの、自身の怪我やコロナ禍の影響で幻に終わっている。けれども後者については、Fリーグやオセアニアでの実戦経験を経て、とうとう夢の実現に大きく近づくこととなった。

昨シーズンのJFLでは2位となり、J3との入れ替え戦を制してJ3昇格を果たした高知ユナイテッドSC。
昨シーズンのJFLでは2位となり、J3との入れ替え戦を制してJ3昇格を果たした高知ユナイテッドSC。

■「60番目のJクラブ」高知ユナイテッドSC

 そんな松本光平を受け入れる、高知ユナイテッドSCについても触れておこう。クラブは2016年、四国リーグに所属していたアイゴッソ高知と高知UトラスターFCが合併して設立。2020年にJFLに昇格し、昨シーズンにはJ3のY.S.C.C.横浜との入れ替え戦を制して、悲願のJリーグ入りを果たした。

 いわば「60番目のJクラブ」。今季からチームを率いる秋田豊監督は、いわてグルージャ盛岡の社長時代、引退して人気YouTuberとなっていた那須大亮氏を現役復帰させた「実績」を持つ。もっとも松本光平の加入は、単なる「話題性」で終わることはないはずだ。

 ポジションはMFだが、両サイドが主戦場。右でも左でも、ウインガーでもサイドバックでも十全に機能する。運動量が旺盛でスピードがあり、左目のかすかな視力だけで瞬時に的確な状況判断ができる。Fリーグでのプレーを通じて、対人での駆け引きにも磨きがかかった。

 ピッチを離れた素顔は、いたって謙虚で真面目。誰に対しても礼儀正しく、それでいて関西人特有のユーモアも忘れない。それ以上に評価したいのが、身体のケアから食事、睡眠時間に至るまでの徹底した自己管理。常にサッカーと真摯に向き合う姿勢は、若手選手にとって格好の見本となることだろう。

 2022年の自著『前だけを見る力』にて、松本光平は《僕がプレーを続けることで、たとえ目に障碍があっても、プロのサッカー選手としてプレーすることを証明したい》と、あとがきに記している。そんな彼の思いを真正面から受け止めた、高知というクラブの懐の深さと先見性には、心からの拍手を送りたい。

「オセアニアのサムライ」と「60番目のJクラブ」の邂逅。そこから、果たして何がもたらされるのだろうか? 早くも新シーズン開幕が待ち遠しくなってきた。

<この稿、了。写真はすべて筆者撮影>

写真家・ノンフィクションライター

東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。『フットボールの犬』(同)で第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『サッカーおくのほそ道』(カンゼン)で2016サッカー本大賞を受賞。2016年より宇都宮徹壱ウェブマガジン(WM)を配信中。このほど新著『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)を上梓。お仕事の依頼はこちら。http://www.targma.jp/tetsumaga/work/

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