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桶狭間合戦のとき、今川義元に槍を突いた服部小平太とは何者なのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
今川義元本陣跡。(写真:イメージマート)

 ビジネスの現場では、手柄を人に取られてしまうこともあるだろう。桶狭間合戦のとき、服部小平太は今川義元に一番槍を突いたが、最終的に首を取ったのは毛利良勝だった。小平太とは何者なのか、考えることにしよう。

 服部小平太は実名を一忠といい、尾張津島(愛知県津島市)で誕生した(生年不詳)。父は、平左衛門康信という。小平太が織田信長の馬廻だったのは明らかであるが、その前半生は不明である。

 永禄3年(1560)、今川義元が西進の途につくと、小平太は信長に従って出陣した。そして、桶狭間で織田軍と今川軍が雌雄を決したのである。信長軍は背後から今川軍に奇襲攻撃したといわれてきたが、今は正面から攻撃を仕掛けたという説が有力である。

 信長軍の攻撃を受けた義元は、ただちに逃亡した。その際、約300騎の軍勢が義元を守っていたという。しかし、信長軍の追撃に対して、今川軍はほとんどなす術がなかった。

 義元は「鉄漿(おはぐろ)を塗った軟弱武将」というイメージがあるが、実際は「海道一の弓取り」と称される人物で武芸に優れていた。義元は自ら太刀を手にすると、果敢にも信長軍に応戦したのである。

 その際、義元に一番槍を突いたのは、服部小平太だった。義元は力を振り絞って、小平太の膝を太刀で斬った。しかし、信長配下の毛利良勝が義元を組み伏せると、見事にその首を取ったのである。結局、手柄を挙げたのは良勝となった。

 小平太は一番槍を突く軍功を挙げたが、信長から登用された形跡もなく、その後も特に史料に登場することはなかった。天正10年(1582)6月の本能寺の変で信長が横死した際、信忠(信長の長男)の配下にあった弟の小藤太は戦死したが、小平太は難を逃れた。

 信長が亡くなったので、小平太は羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。黄母衣衆に加えられた。小平太は、小牧・長久手の戦いに出陣し、天正18年(1590)の小田原征伐にも出陣した。

 翌年、小平太は秀吉から伊勢一志郡に3万5千石を与えられ、豊臣秀次に従うようになった。一気に登用されたのである。しかし、文禄4年(1595)に秀次が切腹に追い込まれると、小平太も連座して切腹を命じられたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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