報道の自主規制の道を探る英新聞界 ー新組織「IPSO」の下で統一しきれず
(月刊誌「新聞研究」2月号掲載の筆者の原稿に補足しました。)
昨年9月、英国の新聞報道についての新たな自主規制組織「独立新聞基準組織」(通称「IPSO」=イプソ=Independent Press Standards Organisation)が発足した。「新聞」といっても、雑誌報道も含む。
IPSOは先に存在していた自主規制機関「報道苦情処理委員会(通称「PCC」=Press Complaints Commission)の後を引き継ぐ存在だ。10年前に明るみに出た、ある大衆紙での電話盗聴事件が発足までの道を作った。
PCCにはほぼすべての大手新聞社が加入していたが、IPSOには左派系高級紙ガーディアン、インディペンデント、経済紙フィナンシャル・タイムズなどが加入していない。各紙はそれぞれ個別の体制を作り上げる道を選択した。
IPSOとは別に、新自主規制組織「インプレス」(Independent Monitor for the Press=「新聞の独立監視機構」)も設置準備を進めている。
IPSOが何故生まれたか、また何故大手数紙があえて加盟しないことを選択したのかをたどりながら、英国の新聞界の自主規制事情を概観してみたい。
誕生までの経緯
IPSO誕生のきっかけは2005年に発覚した、日曜大衆紙「ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙」(以下、ニューズ紙)による王室関係者に対する電話盗聴事件である。
当初は王室関係者のみが盗聴の対象になったと思われ、07年に同紙の記者と私立探偵が実刑判決を受けたが、その後の英ガーディアン紙による調査で対象者が政治家、著名人、市民など広い範囲にわたっていたことがわかった。
2011年7月、盗聴の犠牲者の中に失踪した14歳の少女(後に殺害されていたことが判明)がいたとガーディアンが報道し、国民に大きな衝撃を与えた。少女の姿がテレビでひんぱんに報道されており、盗聴の対象は著名人とばかり思っていた国民は大衆紙の報道の熾烈さを、一瞬にして身近に迫った問題として受け止めた。
ニューズ紙に対して国民的な批判が高まり、発行元のニュース社は同紙の廃刊を決定した。失踪少女報道から4日後の電光石火の決断だった。いかに強い逆風が吹いていたかを示す。
7月中旬、キャメロン首相は新聞界の文化・慣行・倫理について調査する委員会を立ち上げた。ブライアン・レベソン判事が委員長となったため、「レベソン委員会」と呼ばれた。
何故たった一つの新聞の盗聴事件を端緒として、税金を使う調査委員会を立ち上げたのか?
その理由はまず、盗聴行為(ここでは、実際には他人の携帯電話の留守電の伝言を聞く行為)の対象者が市民のほかにも政治家、著名人などいわゆる社会のエスタブリッシュメントに属する多くの人を対象にした大掛かりなものであったことが挙げられる。組織ぐるみで違法行為が行われた可能性が出た。
また、2005年の事件発覚時から、11年にガーディアン紙の報道で予想を超える規模の大きさが分かってくるまでの数年間、ロンドン市警は盗聴犠牲者が王室関係者のみではないことを知っていたにもかかわらず、捜査を行わなかった。ニュース社の欺瞞隠しと警察当局との癒着の疑いが出てきた。
ニュース社の英国の新聞界、政界における位置も、大きな事件として注目された理由の1つだ。
オーストラリア出身のルパート・マードック氏が会長となるニュース社は米国の会社だが、英国ではその子会社ニュース・インターナショナル(現在は組織変更し、一部はニュースUKになった)が発行する新聞(サン、ニューズ・オブ・ザ・ワールド、タイムズ、サンデー・タイムズ)は国内の新聞市場で大きなシェアを持っていた。また、英国最大の有料テレビサービス「スカイ」を提供するBスカイB社の株の40%近くをニュース社が保有していた。
新聞市場での大きな地位を元に、マードック氏は歴代の英国の首相と親しい関係を築いてきたと言われている。発行部数の大きな新聞が自分の政党を支持してくれれば、選挙に勝てるからだ。
キャメロン首相にとっても他人事ではなかった。委員会設置当時、ニュース・インターナショナル社の経営トップ、レベッカ・ブルックス氏は親しい友人であったし、盗聴事件が最初に発覚した際に、ニューズ紙の編集長だったアンディー・コールソン氏(「盗聴については知らなかった」としながらも、編集長職を辞任)を保守党が野党だった時に広報担当者として雇用していた。2010年に保守党が自由民主党ととにも連立政権を発足させると、コールソン氏を官邸の戦略担当者に任命した。首相自身とマードック勢力との癒着の可能性が政治問題化した。
こうした複数の要素が委員会発足の背景にあった。
新たな自主規制組織への動き
レベソン委員会による大々的な調査は2011年夏から12年秋まで行われた。新聞社経営幹部や、歴代首相を含む政治家、報道の被害者など300余人が証言を行った。12年11月末には全2000ページの報告書が発表された。
一部を引用すると、報告書は一部の新聞が「ネタを追うために業界の倫理綱領が『存在しないかのように振る舞い」、『罪なき人々の人生に大きな苦難や大損害をもたらした』」、「あまりにも多くの新聞記事があまりにも多くの人から苦情の対象になりながら、新聞が責任を取る例が少なすぎた」。また、「規則順守体制に失敗があった」、「個人のプライバシー保護や尊厳への敬意が欠如していた」。
PCCへの批判も手厳しかった。PCCは業界からの「独立性に欠けていた」。新聞界への批判を阻止し、盗聴事件への調査ではニュース紙を支持したことで、「信頼性を失った。真剣な調査がまったく行われなかった」。
レベソン委員長は新たな、独立(新聞業界内外の権力から独立)自主規制・監督機関の立ち上げを推奨した。
「法令化」でネック、意見がまとまらず
この後、組織の立ち上げは暗礁に乗り上げた。レベソン委員長が新たな規制機関を法令によって設置し、独立した存在であることを保証するために外部の認定組織を置くようにと推奨したためだ。何世紀にもわたり自主規制でやってきた新聞界は法令によって機関を立ち上げることにいっせいに反対した。
新聞業界内の意思統一ができないままに数ヶ月が過ぎた。
13年3月末、与野党3党は法令化によらず、女王の勅令(=王立憲章)による設置案で基本合意する。10月、女王の諮問機関・枢密院がこの組織の成立を承認した。
一方の新聞界は、13年末、政府案に寄らず、独自にIPSOを設置する動きで数社がまとまった。
IPSOの発足は昨年9月上旬だった。業界外の人材の投入割合を大きくすることで業界からの独立性を高め、本格的な自主規制・監督組織となることを目指した。
その機能は:
(1)「報道規定の違反に関する苦情を処理」
(2)「規定が遵守されているかどうかを調査」
(3)「内部告発用ホットラインの設置」
(4)「苦情を持つ読者と出版社側との間に裁定サービスを提供」など。
重大な規定違反、不正などがあった場合、最大で100万ポンドの罰金を科す力も持つ。
諸所の特徴はレベソン報告書が提案した規制組織案、年与野党が合意した規制組織案にも入っていた。IPSOはレベソン案をほぼ踏襲した組織ともいえる(ただし、王立憲章による設置は望まない意向を表明している)。
IPSOに参加を希望する出版社は会員合意書に署名する(6年間有効)。IPSOの規則を変更する場合、会員全体の66%の得票が必要だ。取締役会と苦情を処理する委員会のそれぞれが12人体制で、7人が業界外の人物、5人が業界関係者とする。運営資金は全国紙が62.4%、地方紙が32%、雑誌が5・6%を負担する。
IPSOの取締役任命委員会(5人体制で、3人が業界外の人物、タイムズ紙編集長、元地方紙編集長)を率いるのは控訴院判事アラン・モーゼズ氏である。
昨年12月23日、IPSOは初年度の活動報告を発表した。これまでに約3000件の苦情を受け付けたという(旧PCCが2013年に受け付けた苦情件数は約1万2000件であった)。
IPSOに参加している新聞社は地方紙の出版社に加え、テレグラフ・メディア・グループ(デイリー・テレグラフ、サンデー・テレグラフ発行)、ニュースUK(サン、タイムズ、サンデー・タイムズ)、デイリー・メール&ジェネラル・トラスト社(デイリー・メール、メール・オン・サンデー)など。
大手新聞社はほぼそろったが、参加していないのがガーディアン・ニュース&メディア(ガーディアン、オブザーバー)、インディペンデント・プリント・リミテッド(インディペンデント、アイ)、夕刊紙イブニング・スタンダード、フィナンシャル・タイムズだ。
ガーディアン・ニュース&メディア社はIPSOをPCCと良く似た存在としてとらえている(ウェブサイト「プレス・ガゼット」、9月5日付)。「運営資金組織やほかの仕組みが似ており」、「業界の触手が新組織の資金支配、構成機構に手を伸ばすようだ」。
ガーディアンは独自に新たな苦情受付体制を立ち上げた。読者の不満に耳を傾ける「読者のエディター」に苦情を見てもらい、もしこのエディターの処理に不満がある場合、読者は「見直し委員会」に問題を上げることができる。委員会は元テレビの政治記者など識者数人で構成される。苦情は編集規定に沿って処理を判断する。
フィナンシャル・タイムズも独自の仕組みを作っている。昨年4月、バーバー編集長が「独自処理」と「自分たちで透明性を持って処理できる」とする声明文を発表した。9月にはガーディアンの読者のエディターに相当する、「編集上の苦情処理委員」が任命された。編集長の介在なしに選任された人物で、30歳の法廷弁護士である。この委員に提出された苦情は同紙の編集規定に照らして、判断・処理されるという。同時に、読者が記事の内容についてコメントを残したり、編集スタッフと意見を交換する機会を拡大する。
インディペンデントも独自処理体制を取る。「今のところ、IPSOに入る予定はない」が、入らなくても「ほとんど影響はないだろう」(12月28日付)という。
上記とは別に、新たな新聞規制組織を立ち上げようとする有志らが「インプレス・プロジェクト」を始めている。レベソン報告書の提言を元に、王立憲章に基づいて発足することを目指す。新聞界とは独立し、かつ報道の自由を維持することを狙う。
2013年12月から準備を開始し、まだ組織作りの最中だが、プロジェクトの立ち上げ委員の中に、パトロンとして元英サンデー・タイムズのハロルド・エバンズ編集長の名前が見える。準備委員会のスタッフには金融オンブズマン・サービスの元幹部、オブザーバー紙の副文化編集長、人権活動家など。財源は政府からは資金をもらわず、寄付金を中心にして集める。資金提供者には著名人が名を連ねているが、報道被害者の一人としてレベソン委員会で証言した、ハリーポッターシリーズで著名な作家JKローリング氏もその1人だった。
インプレスは個々のメディアが処理できない苦情を扱い、「第2審」の位置づけだ。訂正記事の掲載を命令したり、苦情が妥当かどうかなどの調査も行う。今年から実質的な活動を始めるという。現時点ではインプレスに参加したいと申し出たメディアはまだないそうだ。
自主規制を巡り、複数の仕組みが乱立する状態となっている。
その後
新聞報道の規制をどうするかでバタバタした動きが続いた2-3年だった。
規制以外の、その後の大きな動きを伝えたい。
一時はキャメロン首相のアドバイザーの1人として官邸に入ったアンディー・コールソン氏。盗聴事件発覚時のニューズ・オブ・ザ・ワールド紙の編集長である。昨年7月、非合法に通信を傍受した共同謀議で有罪となり、1年半の実刑判決が下った。他にも当時同紙で勤務していた記者など複数が実刑判決を受けている。
2005年当時、この新聞を発行していたニュース・インターナショナル社(現ニュースUK社)の経営トップだった女性がレベッカ・ブルックス氏。かつてコールソン氏の上司で、一時は愛人関係にもあった。留守電の盗聴容疑、役人への違法の支払い容疑、司法妨害罪に問われていたが、昨年6月、無罪判決が出た。
ブルックス氏はニューズ社会長マードック氏に可愛がられてきた存在で、今年3月、ニュース社の経営陣として復活するニュースが流れた。アイルランド発祥のメディア企業「ストーリーフル」の経営に関わるといわれている。
コールソン氏とブルックス氏と言う二人の人物の明暗が出た。5月の総選挙に向かうキャメロン首相にとって、野党時代からコールソン氏を重宝していたことは話題にして欲しくない過去だろう。
一方、今月3日、高等裁判所での裁判で、デービッド・シャーボン法廷弁護士は、大手出版社トリニティー・ミラーで「大規模な電話盗聴が行われていた」と述べた。「ニューズ・オブ・ザ・ワールド紙よりもはるかに大規模」であったという。著名人8人が、盗聴についてトリニティー・ミラーを訴えた裁判だ。まだ審理は続いている。
大騒ぎとなったニューズ・オブ・ザ・ワールド紙での盗聴事件だが、ほかにもまだあったのである。