カネは、モノに換えない限り、太らない
マイナス金利というのは、事実として現に起きていることですが、資本主義経済体制を支える原理の根幹にかかわる問題であって、早急に解消することが必要です。そのためには、わざわざ費用をかけてカネをもつくらいなら、カネをモノに換えたほうが得だ、即ち、カネを使い切るほうが得だというマインドが生じなければならない、それがデフレマインドからの脱却の意味ですが、さて、どうすれば、そうなるのか。
「四月の悪事」
もはや、米国で一世を風靡したハードボイルドの作家たちを知る人も少ないでしょう。その忘れ去られた一人に、ジョン・D・マクドナルドがいます。トラヴィス・マッギーという探偵のシリーズが有名でした。ちなみに、探偵ルー・アーチャーを生んだ有名なロス・マクドナルドとは別人です。
そのジョン・D・マクドナルドに、「四月の悪事」(原題はApril Evilというのですが、邦訳はないと思います)という作品があります。初版は、1955年のようです。これは、サスペンス小説として、非常によくできたものなのですが、それ以上に、哲学的に興味深い作品です。
その梗概だけをとりだせば、富豪の家に凶悪な強盗が押し入るという犯罪を描いた単純なものです。この富豪、実は、全財産を現金にして自宅の金庫に保管していたので、それを知った悪漢が目をつけたのです。
おもしろいのは、この富豪が全財産を現金にしていた理由です。それは、なんと、お金を働かせないためだったのです。成功した実業家として蓄積した資産、その資産は、現役時代には、生きて働いて、自己増殖していました。しかし、実業家は、引退後、自分の財産も引退させ、働けないようにしたのです。銀行預金にしたら、利息を生んでしまう、働いてしまう、だから、現金にして金庫に閉じ込めたわけです。
ところで、この小説、素晴らしい結末がついています。強盗は、お金を盗み出すことには、一応は、成功します。そして、追跡をかわすために、小船に乗って海上へ逃げます。ちなみに、舞台は、フロリダの海辺の町です。ところが、数日後、海に漂う小船のなかで、渇きによって死んでいるのを発見されるのです。
皮肉なのは、巨額な現金をもちながら、海の上では、水一杯買うこともできなかったことです。現金は、利息を生む力はないとしても、物を買う力、決済手段としての購買力はもっているのです。しかし、絶海に漂う小船のなかでは、その購買力すら、失っていたということです。
反資本主義の哲学
これは、明らかに、資本主義の本質にかかわる哲学的な話なのです。
投資とは、資本を稼働させて、即ち、資産に転化させて、収益を得る営みです。資産は、酪農業における乳牛です。乳牛が牛乳をより多く生みだすように、牛の世話をするのと同じように、資産がより多くの果実を産むように、手入れをする、この手入れをすることが投資活動なのです。
投資とは、具体的に、カネを実物資産等のモノに転化させて、そのモノを稼働させて、カネを生みだし、そのカネを、再び、モノに転化させて、というように、カネをモノに換え、モノとして働かせることで、カネを太らせること、つまり、カネとモノの回転による増殖のことです。
短期金利とは、資本が小休止していても、資本であること、そのことの理由のみによって、生み出される最低限の資本利潤であって、投資の原点です。しかし、資本は、常により高い利潤率を求めて、長く自己を固定させ、また、移動しながら、自己増殖して行きます。それが、資本の本質であり、資本主義経済の本質であり、まさに、経済の成長の動因です。そして、もちろん、成長こそ、投資の本質であり、目的です。
ですから、この小説の富豪は、資本を金庫に閉じ込めたのです。資本は、働けないどころか、動くこともできない。資本に罰を与えたのです。この富豪は、不動産で富をなしたという設定ですが、実に奇怪な反資本主義の哲学者というほかありません。
もっとも、マルクスによれば、資本は、この奇人の富豪に活動を禁じられるまでもなく、自己増殖の果てに、自動的に、活動不能になるはずでした。つまり、資本は、増殖していくことにより、分母の増大に分子の増大が追いつかなくなり、利潤率の低下を招いて、最終的には、利潤率がゼロになるところまで、増殖せざるを得ないからです。しかし、マルクスの予言は外れて、資本は、したたかにも、常に、新たな働き場所を見出してきたのです。
資本が働かない日本の現実
日本では、極端な低金利が長いこと続いている、つまり、とうに、資本は休眠しています。金利が極端に低いということは、資本の働き場所が少ないということです。働き場所が少ないので、小休止している資本が多くなり、結果的に、長いこと、短期金利が事実上のゼロになっているのです。
つまり、久しく、日本経済は、ほとんど成長していない、あるいは、資本は、日本経済の成長のために、ほとんど使われていない、ということです。
しかし、資本のしたたかさと強靭な生命力を考えるとき、こうした事態の継続は、政府ならずとも、奇異なことのように思えます。
例えば、資本の本性として、日本に働き場所がないならば、日本外に大量に流出し、円は安くなり、その刺激効果や、国内資本の相対的減少により、資本の働きは活性化してもおかしくはなかったでしょうし、不稼働資産の大量廃棄等が資本の再配置をもたらすこと、いわゆる構造改革によっても、資本活性化は十分にあり得たはずなのです。
短期金利がゼロということは、カネはカネとして太らないということであり、資本が働かないということは、カネはモノに転化しても太らないということですが、資本の本質として、なぜ、そうなるのか、資本は、必死に考え、工夫し、ありとあらゆる手段を講じて、自己をモノに転化して、太ろうとするのではないのか。
反資本主義の精神としてのデフレマインド
要は、日本には、資本を金庫に閉じ込める反資本主義の哲学があるのです。デフレマインドというのは、明らかに、反資本主義の精神です。政府にしても、日本銀行にしても、政策の最重点課題に、デフレマインドからの脱却をあげるのは、資本主義経済体制の日本において、成長戦略を掲げる限り、当然極まりないことです。
カネがモノに転化されないのは、モノに転化させても太らないとの見通しがあるからです。これこそ、デフレマインドですが、これでは、カネは太り得ない、つまり、経済は成長し得ない。
そもそも、カネをモノに転化させたとき、実際に太るかどうかは不確実なわけで、確実なことは、カネをモノに転化させない限り、決してカネは太らないということです。故に、資本主義の根本の原理は、不確実性、即ち、リスクを積極的にとっていくこと、その冒険心、合理的な賭けの精神にあるのです。
デフレマインドとは、この資本主義の精神の放棄であり、カネの上に安住する、あるいは小説の富豪のように、カネを金庫に閉じ込めるのと同じことです。実際、この富豪の行為が投資戦略として有効になる場合は、たった一つ、デフレにより、カネの購買力が高くなるときだけなのです。
コーポレートガバナンスの真の意味
喫緊の課題は、産業界において、カネを使い切ることです。この面で、コーポレートガバナンスの重要性は、やっと、日本でも認識されてきましたが、どこまで、その本質が理解されているのかは、大いに疑問です。
コーポレートガバナンスとは、資本主義の原点を前提として、株主から集めた資本を、モノに転化して、増殖させる行為、即ち、健全なる冒険、合理的な賭けを、統制する規律のことでなければなりません。この見地から、企業の手元流動性、即ち、カネの適正なる保有額が問題視されるのです。
カネの保有を正当化できなければ、よくいわれるように、自社株買いや、配当によって、株主へ返還しなければならないし、更に一歩を進めて、カネの使い道がないということは、成長の機会を見いだせないということだから、そのような企業にも納得できる少数の株主によって買収されて、市場から退場すべきなのです。
しかし、このようなコーポレートガバナンス論は、最低限の消極論をいうにすぎません。真のコーポレートガバナンス論としては、企業には、企業である限り、必死に考え、何が何でも、カネの使い道を作り出し、カネをモノに換え、カネを太らせ、成長させる義務があるということです。
マイナス金利政策
では、マイナス金利政策というのは、要は、企業に対して、カネを使う義務を強制するものなのか。
マイナス金利とはいっても、現時点では、銀行等が日本銀行に有する当座預金の一部に適用されるもので、基本的に、金融システム内部の問題です。ただ、国債は、銀行等の保有が多いので、そこには連動があって、既に、マイナス金利に転じてきていますが、マイナス金利の金融システムの外における影響は、未だ、極めて限定的です。
問題は、企業が銀行に有する当座預金等に手数料が課せられて、実質的なマイナス金利になるかどうかですが、政府と日本銀行において、産業界のデフレマインドを一掃したいのならば、企業がカネをもつことに対して費用を発生せしめることは、有効な策でしょう。つまり、産業界において、カネをもつことに費用がかかるくらいなら、カネを使い切り、モノに換えておこうという行動を誘発するのではないかとの期待です。
例えば、資源価格等が大きく値下がりするなかで、マイナス金利となったとき、所詮は使い切る可能性が高い原材料在庫を積み増す行動を誘発することは、自然なのではないでしょうか。それとも、資源価格が下落すれば、更に下落するとの期待になるのでしょうか。それこそ、デフレマインドですが、マイナス金利のもとでも、デフレマインドの維持のほうが自然でしょうか。
合理的な期待形成
要は、期待形成の問題です。下がれば上がる、上がれば下がる、これが経済学の基本として想定されている合理的な期待形成です。それに対して、下がれば下がるというデフレマインドの期待形成、上がれば上がるというインフレマインドの期待形成は、人間の自然な心理的反応であって、まさに、マインドといわれる所以です。デフレマインドからの脱却とは、要は、インフレ論理への転換でなければならないのです。
ところで、合理的期待形成のもとでは、金利が下がれば、金利が上がるという期待になるはずです。金利が上がるという期待形成は、金融理論的には、イールドカーブのスティープ化、即ち、長短金利格差の拡大として現象するはずです。しかし、現実には、日本銀行が国債の買い入れを継続しているため、長期国債の利回りがマイナスになってしまいました。
これは、おそらくは、銀行等の経営への配慮等に基づく、政策の矛盾であって、危険なのかもしれません。やはり、マイナス金利政策導入の時点で、国債の買い入れは、やめるべきだったのでしょう。