廃止から約60年、バス停として余生を送る廃駅の待合室 一畑電気鉄道立久恵線 桜駅(島根県出雲市)
島根県松江市の松江しんじ湖温泉駅と出雲市の出雲市駅を結ぶ北松江線と途中の川跡駅で分岐して出雲大社前駅とを結ぶ大社線から成る一畑電車、通称「バタデン」。このバタデンにはかつて立久恵(たちくえ)線という出雲市から南の山間へと分け入っていく路線があった。立久恵線の廃止は昭和40(1965)年2月18日、60年近い歳月が流れているが、11あった駅の一つが今なおバス停としてその姿を留めている。出雲市所原町の旧:桜(さくら)駅だ。
桜駅は昭和8(1933)年10月15日、大社宮島鉄道の朝山~所原間に開業した。
大社宮島鉄道は山陰の島根と山陽の広島を結ぶ「陰陽連絡鉄道」として建設された鉄道で、出雲大社と宮島厳島神社に由来する壮大な社名を持っていた。ちなみに初代社長は東武グループの創業者である初代・根津嘉一郎だ。
大社宮島鉄道は出雲今市(現:出雲市)を起点に神戸川に沿って山間に分け入り、さらに南下して県境を越え、芸備鉄道(現:芸備線)の三次駅(現:西三次駅)まで91.7キロを結ぶ計画であったが、昭和恐慌の煽りを受けて飯石郡西須佐村(飯石郡須佐町→簸川郡佐田町→出雲市)反邊の出雲須佐駅までの18.7キロまでしか開通させられなかった。さらに同じく陰陽連絡を目指していた木次線が昭和12(1937)年12月12日に備後落合まで全通して芸備線と繋がったことで、大社宮島鉄道が延伸する意義は失われてしまう。結局、出雲須佐以南73.0キロは着工すらされないまま昭和13(1938)年2月3日に鉄道免許を失効。延伸を断念した大社宮島鉄道は「出雲鉄道」に改名し、出雲地方を細々と走るローカル私鉄として走り続ける道を選んだ。もっとも、陰陽連絡を掲げたのはあくまでも出資を集めるための方便に過ぎなかったとの見方もある。
出雲鉄道は沿線に奇岩で知られる景勝地「立久恵峡」を持っていたものの、起点の出雲今市(出雲市)を除けば大きな街はないため乗客は少なく、経営は苦しかった。昭和29(1954)年4月1日には一畑電気鉄道に合併されて立久恵線となるも、電化はされず最後まで非電化路線だった。そして、昭和39(1964)年7月18日、集中豪雨で朝山~桜間の路盤が流失したことが立久恵線の息の根を止めることになる。翌日から運行を休止した立久恵線は復旧を断念して翌昭和40(1965)年2月18日、32年2か月の短い歴史に幕を下ろした。
桜駅も路線廃止に伴い31年4か月の短い歴史をひっそりと終えている。廃止後、駅跡も含めた線路跡は国道184号線に転用され、桜駅跡も現在は朝山郵便局になっている。桜駅周辺はかつての簸川郡朝山村で、昭和30(1955)年3月22日に出雲市に編入されたが、今も「朝山」の地名がつく施設が多い。ちなみに立久恵線跡を走る国道184号線は飯石郡飯南町を経て三次市に至っており(終点は尾道市)、結果的に大社宮島鉄道の夢を代わりに叶えている。
桜駅の待合室も線路やホームと一緒に撤去されて消えてもおかしくないところだが、100メートルほど北西の道路沿いに移設され、「須谷(すや)医院前」バス停の待合室となった。バス停に転用されてから約60年、駅開業時のものであれば築90年が経つだけあってかなり傷んでは来ているが、今なお現役である。
須谷医院前は立久恵線の後身である一畑バス須佐線の停留所で、その名の通り須谷医院という個人医院の目の前にある。バスの本数は平日7往復、休日5往復で、立久恵線跡をなぞるように出雲市駅と立久恵峡・須佐を結んでいる。
来年で廃止から60年を迎える立久恵線、今やその存在を覚えている人は地元でも少なくなっているはずだが、桜駅の旧待合室はトンネルなどの他の遺構や米子で保存されている客車ハフ21(日の丸自動車法勝寺電鉄線フ50)と共にその歴史を密かに伝えていくことだろう。