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朗希世代にブレークの予感。プロ野球にはこんな黄金世代もあった(1)

楊順行スポーツライター
誰だかわかりますか? 市尼崎時代、1983年の池山隆寛です(写真:岡沢克郎/アフロ)

 東海大菅生高の若林弘泰監督と雑談していて、こんな話になった。

「われわれの世代は、谷間なんですよ」

 若林監督は1966年生まれ。干支でいうと、60年に1回の丙午(ひのえうま)にあたる。江戸時代から、丙午生まれは気性が激しく、ことに女性は男を食い殺すという迷信があり、庶民は出産を控える傾向だった。昭和になってもその禁忌は根強く、現に66年は出生数が極端に減っている(65年・約182万、66年・約136万、67年・約193万)。このこと、覚えておいてほしい。

 高卒2年目での活躍、ということで思い出したのは、週刊ベースボールで“恐るべき19歳”というシリーズを担当した85年だ。むろん、フランスの詩人ジャン・コクトーの『恐るべき子どもたち』をもじったタイトル。いまは亡き小林繁さんをホストに、当時19歳のピッチャーたちと、対談していただいたのだ。

 登場メンバーは当時日本ハムの津野浩、西武の渡辺久信、南海の加藤伸一という3人。いずれも65年生まれのプロ入り2年目で、加藤の5勝を筆頭に、ルーキーだった84年から勝ち星を記録していた。この85年は、津野が開幕投手を務めるなど、いずれもシーズン序盤から好調。終わってみれば津野7勝10敗、渡辺8勝8敗11S、加藤9勝11敗1Sという活躍だった。彼らの世代が、いわゆる昭和40年会だ。

 昭和40年といえば、前年に東京オリンピックが開催され、イザナギ景気が始まる高度経済成長のまっただ中だ。プロ野球では、野村克也が戦後初の三冠王に輝いた年。この65年生まれの2学年下が、桑田真澄・清原和博らのKK世代。66年世代は両世代にはさまれ、「前後が豊作だったものだから、なおさら不作といわれるんですよね」とは若林監督だ。失礼ながら若林監督自身も、中日時代に挙げた勝ち星はひとつのみである。

投なら山本昌と星野、打なら古田と池山

 65年世代で、一番最初に名前を知られるようになったのは水野雄仁(元巨人)だろう。82年の夏の甲子園で、5季連続出場だった早稲田実高・荒木大輔(元ヤクルトなど)からバックスクリーンに豪快弾を打ち込んだのが、山びこ打線・池田高の2年のとき。大相撲の東北巡業について回っていた際に、喫茶店のラジオで聞いたんだった。その大会で優勝を果たした池田は翌春、阿波の金太郎こと水野をエースとして、春夏連覇を果たすことになる。のちになって、水野から聞いた話がおもしろい。

「あの春はもう、タマの走りとかも絶好調で、優勝するつもりだったから。抽選では、どこが相手かよりも、試合の時間帯だけが大事でした。とにかく、朝早いのがイヤだから第1試合だけは避けてくれ、と(笑)。実際、その通りになってくれた」

 なんとも人を食った話だが、実際に5試合を自責点ゼロで優勝するのだから、あのときの池田はケタが違ったのだ。

 ほかに40年会の投手陣では吉井理人(元近鉄など)、山本昌広(元中日)、与田剛(元中日など)、小宮山悟(元ロッテなど)、武田一浩(元日本ハムなど)といったタイトルホルダーがいる。これはたまたまかもしれないが、山本、小宮山に星野伸之(元阪急など)を加え、球は遅くても一流、という投手がそろっている。山本、星野はこの年代の勝ち頭1、2位だ。

 旭川工高からプロ入りした星野は「高校時代は北海道から出ることもなく、スピードを測ったことがなかった。ファーム時代、自分では135キロくらいの手応えだったのが、スコアボードを振り返ったら125キロ。ああ、オレって遅いんだ、と、そこで初めて気がついたんです」というから笑えた。

 それでも、ボールのでどころが見にくいフォームから緩急を駆使し、入団4年目から11年連続2ケタ勝利だからすごい。生涯奪三振は2041で、清原は「星野さんのストレートが一番打ちにくい」と証言していたほどなのだ。

 40年会の投手で最初に全国区になったのが水野だとしたら、打者では藤王康晴(元中日など)だ。池田が優勝した83年のセンバツ。愛知・享栄高の藤王は、高校生離れした柔らかなバットコントロールと強いリストで快打を連発し、11打席連続出塁の新記録を達成。おまけに大会3ホーマー、2試合連続アーチという当時の大会タイ記録を残すのだ。ただ、プロではいまひとつだったが……。

 この世代の野手で突出しているのは、古田敦也と池山隆寛のヤクルトコンビだ。この2人なしには、90年代から2001年の5回のリーグ優勝はなかっただろう。池山は、入団初年度から一軍の試合に出場し、4年目からレギュラーに定着すると、ブンブン丸と呼ばれた爽快なフルスイングで人気者になった。

 立命館大からトヨタ自動車を経由した古田は、入団年度では同世代のうちもっとも遅い部類だが、野村監督に抜擢されすぐに正捕手に。2005年には、捕手としては野村に次ぐ2人目の2000本安打を達成。大学から社会人を経てのプロ入りでは史上初めてだから価値がある。40年会の打者で個人タイトルを獲得しているのは、この古田と佐々木誠(元南海など)だけだ。

 佐々木は、セガサミーなどで社会人野球の監督を務め、アマチュア野球にハマったようで、いまは鹿児島城西高を率いている。中止となった20年のセンバツが記録上の初出場だ。もしかするといつか甲子園で、冒頭に記した菅生・若林監督との元プロ監督対決が見られるかも。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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