一条天皇の中宮・藤原彰子の出産が大問題になった理由とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、一条天皇の中宮・藤原彰子が出産するシーンだった。非常にめでたいことではあったが、諸方面に及ぼす影響が大きく、問題だったので検討することにしよう。
一条天皇の妻には中宮の藤原彰子(道長の娘)のほか、中宮の藤原定子、女御の藤原義子、藤原元子、藤原尊子がいた。女御の義子、元子、尊子の3人は、ついに一条天皇の子を産むことがなかった。
定子は一条天皇にとって初めての女性であり、2人は深く愛し合った。一条天皇は、定子との間に3人の子をもうけた。脩子内親王、媄子内親王、そして敦康親王である。
定子が脩子内親王を産んだ際は、妊娠期間が約12ヵ月に及んだといわれている。媄子内親王を産んだときは大変な難産だったといわれ、定子は出産の翌日に亡くなった。定子を大変愛していた一条天皇の悲しみは、尋常ではなかったといわれている。
問題は、敦康親王である。敦康親王が誕生したのは。長保元年(999)11月7日のことである。定子は長徳の変に際して、発作的に髪を切ってしまい、それが出家とみなされていた。出家した定子が敦康親王を産んだのだから、事情はかなり複雑だった。
翌年12月16日、定子は媄子内親王を産むと、翌日には亡くなってしまった。不幸にも母を亡くした敦康親王は、中宮の彰子に養育されることになったのである。敦康親王の養育には、倫子(彰子の母)も協力することになった。
とはいえ、敦康親王の立場は複雑だった。藤原伊周(定子の兄)は復活したものの、往時の威勢を失っていたので、敦康親王の存在がすべてだった。のちに、敦康親王が新しい天皇になれば、復権する可能性が大いにあったからである。
一方、道長が伊周の復権を阻止するためには、彰子が後継者たる男子を産み、次の天皇に据える必要があった。道長が御嶽詣で彰子の出産を祈念したのは、そういう事情があったからで、彰子は期待に応えて敦成親王を産んだのである。
敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生したことは、次の皇太子問題に大きく影響したのである。