【本能寺の変】の後、ライバルである大名たちは織田を攻めないで何をしていたのか?
1582年、天下統一を目前に織田信長が明智光秀によって本能寺で討たれます。しかし、羽柴秀吉が中国大返しでハヤテのごとく引き返し、山崎の合戦にて光秀が討たれました。
その後、1583年の賤ヶ岳の戦いで秀吉が柴田勝家との戦いを制し、織田家中を1年ほどで掌握しました。
ところで、その1年ほどの間に毛利輝元や上杉景勝などの有力大名たちはどうしていたのでしょうか?
徳川家康が関与しない条件なら毛利は羽柴を、上杉は柴田と対峙するだけの力はあったように思えますが実際にそれが可能だったのか考えてみます。
毛利氏は織田の中国攻めで消耗
兵農分離が完了していた織田軍は季節に関係なく攻め立てた結果、和睦直後の毛利氏はかなりの消耗をしていました。また、秀吉を追撃し東に兵を進めても西の九州には大友氏がにらみを利かせています。
和睦交渉も毛利家内では吉川元春が追撃を主張したのに対し、小早川隆景が講和成立を理由に事態静観を主張し追撃を見送っています。豊臣政権後の五大老に毛利輝元・小早川隆景が入っているところをみると、もしかしたら裏で何らかの取引があったのかもしれませんね。
上杉景勝は越後国の内乱で手一杯
本能寺の変直後の上杉景勝は新発田氏の反乱を鎮める事が優先事項でした。
新発田氏は上杉氏の家臣でした。しかし、御館の乱(1578年)の論功行賞で恩賞がもらえなかった事が不満で景勝に対して謀反を企てます。
新発田氏は越中まで侵攻していた信長と手を結びました。織田信長が武田氏を滅ぼし、信濃経由で越後に進出できるようになると、これに呼応する形で新発田氏は侵攻。これまで、中立を保っていた会津の蘆名氏も信長に臣従し上杉氏は四面楚歌の状態になります。
しかし、1582年に本能寺の変が起こると越後へ侵攻していた織田軍が一斉に引き上げていきました。こうして、織田の脅威がなくなった景勝は裏切った新発田氏に兵を向けます。
ようするに当時の上杉氏は越後統一のほうがはるかに大切で、織田の領地を切り開く余裕がありませんでした。この内乱に決着がつき統一を果たしたのは1587年のことです。
北条と徳川は旧武田領をめぐり交戦
北条氏は本能寺の変の混乱に乗じて武田氏の旧領を併合しようと動きだします。
これに対して、徳川家康も参戦し甲斐・信濃・上野の3カ国をめぐり激突する「天正壬午の乱」が始まりました。約4カ月の激闘の末に講和を結び、武田氏の旧領は家康が甲斐・信濃国を、北条氏が上野国を獲得する形で分割されます。こうして徳川家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国を領有する大大名となりました。
長宗我部元親は四国統一に夢中だった
土佐国を統一後、信長より四国統一を容認された長宗我部元親は、阿波国の有力な国人を取り込み四国統一を進めていました。
しかし、1581年に突然信長が約束を反故にし四国討伐を決断。窮地に立たされた元親でしたが、それを救ったのが本能寺の変。その後は1582年には阿波国を、1584年には讃岐・伊予国に侵攻し四国のほとんどを手中に収めました。
よって、長宗我部氏は四国統一が優先で織田氏のことを考えられなかったと思われます。
簡単に各大名の動向をまとめると…
- 毛利 輝元 :織田との戦いで消耗し地盤固め
- 上杉 景勝 :織田の脅威がなくなり内乱処理
- 北条 氏政 :徳川と旧武田領争奪戦へ
- 徳川 家康 :北条氏と領地争奪戦へ
- 長宗我部元親:四国平定で手が回らない
各大名家もまずは目の前の敵を倒すことが先決であったと考えられます。しかし、織田軍以外に兵農分離が完璧にされていない大名家にとってこの空白の1年はかなりしんどいでしょう。それならば、様子をみて機が熟せばということになります。
しかし、その1年間で秀吉は織田家の後継者を擁立し、旧織田家の武将たちの囲い込みに成功して柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで決着をつけ豊臣政権の樹立へと進んでいくのでした。