プロトピアでホロスな既視感『ゴーストインザシェル』の近未来
KNNポール神田です!
『WIRED』創刊編集長のケヴィン・ケリー氏が「インターネットの次にくるもの THE INEVITABLE」の中で提唱する次世代インターネットの概念『HOLOS』。その具現化プロジェクトの「HOLOS2050」の発起人である『MACLIFE』創刊編集長の高木利弘氏と、真夜中というか早朝に、facebookメッセンジャーでやり取りをしていた。インターネットの誕生と同時にピラミッド型社会の崩壊とインターネットの水平分散の概念図。いや、それが、またインターネットのヒエラルキーによるピラミッド型社会が再構築されてしまうのだろうか?
高木氏が送ってきたメッセージに、押井守監督の「攻殻機動隊」のオープニングの気になるタイトルシークエンスがあった…。まさに、20数年前に、まるで現在のインターネットの様相が見事に予見されていた…。
企業のネットが星を被い
電子や光が駆け巡っても
国家や民族が消えてなくなるほど
情報化されていない近未来-----
攻殻機動隊(1995年11月18日公開)のオープニングシークエンスだ。
フィリップKディック原作の映画化「ブレードランナー(1982)」、ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー(1984年)」「AKIRA(1988年)」「トータル・リコール(1990年)」「攻殻機動隊 THE GHOST IN THE SHELL (1991年漫画原作)」「JM(1995年)」「マトリックス(1999年)」まさに1980〜1990年代は、サイバーパンクの時代だった。パソコン通信による300〜600bpsのモデムで電話回線でコンピュータにアクセスしてきた時代に、近未来のサイバースペースのディストピア(ユートピア,理想郷の正反対の社会)の社会が克明に描かれていた…。
既視感のあるディストピア
そして、現在、あの不動産王ドナルド・トランプ氏が米国大統領となり、北朝鮮に武力を誇示し緊張状態になっている。ネット通販ではパスワードがハッキングされ、なりすまし出品で混乱を招き…マストドンという分散型サーバが中央集権的なクラウドに挑戦を挑む…。まさに2017年は、そんなサイバーパンクのディストピアが現実化してきたようだ。かつてみた近未来の既視感に溢れているのだ。押井守監督がHOLOS2050のセッションで、甲殻機動隊側のHOLOSを語るとすると、どんなプラットフォームをイメージするのだろうか?。攻殻機動隊のデビューは1995年、ウィンドウズ95の年末発売の喧騒とリンクする。そう、あれからインターネットは、まだ8000日(22年)しか経過していないのだ。メディアの本領発揮には少なくとも約1万日(27年間)の時間の熟成が必要だ。しかし、その間に生まれ、育った人たちは、もはや「戦争を知らない子供たち」と同様、ダイヤルアップ時代を知らない世代なのだ。スマホひとつでいつでもアクセスでき、常時接続で無尽蔵に様々なデバイスで自由にそれぞれがコンテンツを生産し、消費し、再加工するというコミュニケーションをいとも簡単に成し遂げている。インターネットと共に成長してきているのだ。20世紀に隆盛した、映画、音楽、テレビ、新聞、雑誌、ラジオは、誕生から成熟しており、「マルチメディア」の方向ではなく「モノメディア」「スマートメディア」として、ネットを介在させて自由自在に生活の中に登場するようになった…。しかし、ユーザーはもはや、大企業の編成や思惑とは関係なく、好きな時に好きなだけ所有、いやすでに瞬間的に共有されるだけとなっている。高木氏と盛り上がり、そのまま現在上映中の『ゴーストインザシェル』の映画館に駆け込んだ…。
映画『ゴーストインザシェル』のスカーレット・ヨハンソン
「攻殻機動隊」のアニメを最初に見てから20数年、記憶がかなり薄れているが、実写なのにいろんなシーンの既視感が新たに蘇る。筆者は2Dアニメの映画は、脳で現実に補完する能力が足りないせいか、疲れて、あまり好きになれなかった。しかし、実写映画だと、見たままの映像で脳が実写として補完する必要がないので、素直に現実味を感じることができる。どこまでが、実写といえるか定かではないが…。
スカーレット・ヨハンソンを見ていると、「進撃の巨人」女型の巨人であったり、「LUCY」「her/世界でひとつの彼女」の人口知能を見ているかのような気分になる。いや、「ウルトラバイオレット」や「フィフス・エレメント」などのジョボォヴィッチにも通じるサイボーグ感にも近い。北野武の登場は「JM」を想起させる。考えてみれば、サイバーパンクの世界をリアルにすればするほど当時の既視感で一杯なのだ。
「攻殻機動隊」はサイバーパンク時代のシンボルだったが、ヨハンソンの「ゴーストインザシェル」は、鉄腕アトムやピノキオ同様の感情を持つ精密機械の葛藤の中で人として生きる普遍の「義体」としての人間はどこまでが人間なのか?がテーマである。人体の拡張は、レーシック手術や、ヒアルロン酸注入などと、同様にIDチップやメモリー増加や視神経レベルでのAIやVRで拡張されロボティクスやIoTでは、ヒューマノイド化がさかんになる。すでに、街を歩く人たちは、スマホをかざしながら、歩く義体化人間であり、ジョージ・オーウェルの1948年に描かれた「1984」のディストピアそのものだ。
ネットとコンピュータと人間が共存していく新たな世紀としての21世紀。この100年ほど、人類の歴史上一番すごい革命が起きようとしていることは明確だ。知能指数が人間の数万倍にもなるコンピュータという人種たちとどう付き合っていくのか、人類の個人ひとりひとりの、ふるまいが試される時でもある。ケヴィン・ケリーはそれをユートピアでもディストピアでもない「プロトピア」だという。プロトピアとは、ほんのわずかであっても、昨日よりも今日よりもよい状態である。インターネットのユニコーンは、プロトピア発想か、コストのダウンサイジングでしか成長しない。もしくはセキュリティの悪夢によるディストピア商法だ。しかし、人類を導いてきた道は、今日よりも少しだけよい未来への展望でしかないことは、歴史が証明してくれている。人類に悲観以上の楽観があるかぎり、新たなプロトピアに満ちたホロスが形成されることに期待したい。