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映画「64-ロクヨン-」で想起する「昭和64年の少女誘拐殺人事件」宮崎勤事件と昭和の終わりの関係

篠田博之月刊『創』編集長
映画「64-ロクヨンー」のパンフより

映画「64-ロクヨン-」は前編後編とも公開後すぐに観た。人間ドラマが丁寧に描かれ、面白い映画だと思う。予告編を観た段階からひとつ引っかかっていたのは、「わずか7日間でその幕を閉じた、昭和64年。その間に起きた少女誘拐殺人事件」というキャッチフレーズだ。当然思い起こすのは、昭和63年から翌年にかけて起きた少女連続誘拐殺人事件、宮崎勤事件だ。もちろん原作はフィクションだから、何がモデルかなどと詮索することにあまり意味はない。原作者の横山秀夫さんが、幾つかの事件をヒントにしながらひとつの新しいストーリーを組み立てていったことは明らかだ。

それにもかかわらず、なぜ私が宮崎勤事件との関係を気にしたかといえば、ネットなどで、この映画のモデルは何かといった話題がある中で、当然想起されてよい宮崎事件が触れられていないからだ。「64-ロクヨン-」は「7日間で終わった昭和64年」というのが全体を貫く大事なモチーフになっており、映画の中でも当時の小渕官房長官が「平成」というパネルを掲げるシーンが何度も登場する。その「昭和の終わり」と密接に関わっていたのが宮崎事件だった。

「平成」の文字を掲げる当時の官房長官
「平成」の文字を掲げる当時の官房長官

ネットで主に「64」のモデルとされているのは功明ちゃん誘拐事件だ。犯人を取り逃がしたというこの事件は、原作者が新聞記者をしていた群馬県で起きたものであることから、ヒントにしたのは確かだろう。しかし、この事件が起きたのは昭和62年であり、「昭和の終わり」のイメージとは結びつかない。なぜ宮崎事件がここで「昭和の終わり」のイメージとともに連想されないのか。私はむしろ、そっちのほうが気になった。

ひとつの理由は恐らく、宮崎事件が単純なわいせつ事件として片づけられてしまったからだろう。「64-ロクヨン-」の素材となる身代金目的の誘拐事件とは根本的にイメージが異なる。そしてもうひとつ気になるのは、昭和天皇の死去と宮崎事件とをつなげることが、当時、意識的に避けられ、そのイメージが何となく封印されてしまったからではないかという気がすることだ。

ネットで検索すると宮崎事件についてはたくさんの情報が出て来るのだが、全体を通してひどく偏っているのが気になる。宮崎事件については、ノンフィクション作家の佐木隆三さんや吉岡忍さんらの作品が知られているし、大塚英志さんも1審の裁判には深く関わった。私も宮崎死刑囚本人と12年間接触し、処刑後には彼の母親から「長い間、勤がお世話になりました」とわざわざ電話がかかってきたほどだ。でも、それら事件に関わった表現者やジャーナリストの情報はほとんどネットに残されていない。宮崎事件が、ネットの普及する前の事件だったからだ。

だから今回、これを機会に、宮崎事件と昭和の終わりの関係について少し書いておこうと思った。それが今日までほとんど言及されずに封印されてしまっているのは、たぶん当時はまだ天皇タブーが強固だったという事情もあるのではないかと思う。

宮崎事件そのものが今や遠い昔になってしまったが、昭和63年から少女が次々と誘拐され、後に連続殺害事件として社会全体を恐怖のどん底に落とし込んだ事件だ。事件が大きく展開するのは、昭和が平成に替わった1989年2月6日、行方不明となったMちゃんの自宅前に、犯人と思われる者が置いた遺骨入りの段ボールの箱が見つかったからだ。2月10日にはその被害者宅だけでなく新聞社などへ犯行声明も送られ、事件は「劇場型犯罪」として社会を震撼させた。

なぜ宮崎死刑囚は、アシがつきかねない、そういう大胆なことを行ったのか。その動機について宮崎死刑囚は逮捕後何度も語っていたのだが、不思議なほど世に知られていない。宮崎死刑囚を、遺骨を遺族宅に届けるという行動に駆り立てたのは、昭和天皇の死去が当時、大きく報道されていたのがきっかけだった。例えば、精神鑑定の中で彼はこう答えている。

《八九年の冬場はテレビやコマーシャルで葬式をやっていて、見た時、おじいさんの葬式と同じだなと思ったことがある。何か送ったとしたら葬式をまた見るとして送ったとしか言いようがない。》

宮崎死刑囚は、昭和天皇崩御を報じた新聞記事を大切に保存していた。後に精神鑑定でこんなやりとりをしている。

《--宮崎君は昭和天皇の葬儀の新聞を大切にしていたんだってね。

宮崎 違う。あれはおじいさんの葬式。

--どういう点からおじいさんの葬式と感じたんですか。

宮崎 わかった。

--直観的にわかったの。

宮崎 「ぴーん」ときた。

--写真を見てですか。

宮崎 テレビでやっていた。

--テレビは昭和天皇のでしょう。

宮崎 言葉ではそのようなことを言っていた。》

宮崎死刑囚の頭の中で、昭和天皇の死と、前年の祖父の死が混濁しているのだ。1988年の祖父の死去は、最初の誘拐事件の3カ月前に起きたもので、一連の事件の大きな鍵になるものだ。宮崎死刑囚は幼女を誘拐して殺害し、遺体を解体したり、いろいろな儀式を行っていた。初公判でそうしたことが明らかにされるや、あまりの猟奇性に世間は騒然となった。実はそれらはみな、宮崎死刑囚の意識の中では、祖父をよみがえらすためとして関連づけられていたのだった。宮崎死刑囚の説明の中では、祖父の死と昭和天皇崩御はしばしば入れ替わりイメージが交錯するのだが、日本中が喪に服していた1989年当時はたぶん、宮崎死刑囚のそうした説明は、とんでもない不敬として封印されたと思われる。

宮崎事件が単純な猥褻事件でないことは、彼が幼女の遺体を解体したり、遺体が腐食していく様をビデオに録画したりしていたことでもわかる。人間が死を迎えることで人格が消失し、物体になっていくことに彼は異様な関心を示していくのだが、それは可愛がってくれた祖父の突然の死がきっかけだった。そして1989年の昭和天皇崩御が大きく報道されたのをテレビや新聞で見たことで、彼はMちゃんの死を遺族に知らせようとして段ボールを自宅前に届けたのだった。

祖父という身近な人の死に直面した宮崎死刑囚が、高校自体から発症していたと思われる精神的な病いを一気に悪化させ、精神的な崩壊に至っていくのが、ちょうど1988年から89年にかけて次々と幼女を誘拐して殺害していく事件の時期であった。

宮崎事件と祖父の死の関係については拙著『増補版ドキュメント死刑囚』に詳しく書いたし、2014年に佐世保女子高生殺害事件でやはり殺害した遺体を解体するという行為がなされたこととの関係で、このブログでも考察した。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20141007-00039772/

わずか7日間で終わった昭和64年は、天皇の死去というのがいかに大きな社会的意味を持つかが認識された時期だった。誘拐された幼女の自宅に骨の入った段ボールが届けられることで大きな社会的衝撃を巻き起こした宮崎事件の展開は、その直後、平成が始まった1989年2月初めのことだった。

その二つが現在、関連づけられることもなく、昭和64年の少女誘拐殺害事件というフレーズを聞いて、宮崎事件が全く想起されないというのは、私にはどうも偶然ではなく、当時の関係者の間で何らかの意志が働いたような気がしてならない。

なお宮崎死刑囚自身は、『夢のなか』『夢のなか、いまも』という2冊の著作を残している。どちらも私が編集したものだが、不可解な宮崎ワールドを理解してもらうためにかなり丁寧な解説をつけたのだが、それでも不可解だ。しかし、宮崎事件を研究するためには最もよい1次資料であることは間違いない。宮崎死刑囚とは膨大な私信のやりとりも残っており、後世の記録として何らかの形で整理し、残したいと思っている。

宮崎勤本人の著作(創出版刊)
宮崎勤本人の著作(創出版刊)
月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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