松平信康事件だけではなかった!揉めに揉めた戦国時代の家中騒動3選
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過日、ロシアではクーデターが勃発したが、失敗に終わったようだ。戦国時代にもクーデターが勃発したので、そのうち3つを紹介することにしよう。
1.京極争乱
文明2年(1470)、近江守護の京極持清が亡くなると、直後に嫡男の勝秀も病没した。その後、勝秀の嫡男・乙童子丸と次男の孫童子丸が家督をめぐって争った。乙童子丸には政経(持清の三男)、多賀高忠が味方し、孫童子丸には政光(持清の次男)、多賀清直が味方した。
翌年、孫童子丸は夭折したが、対立の構図はそのまま引き継がれ、両陣営は激しい戦いを繰り広げた。その後、応仁・文明の乱、足利義尚による六角氏征伐などの混乱を経て、明応元年(1492)に京極高清が京極家の家督を継いだ。なんと、32年も争ったのである。
2.庄内の乱
慶長4年(1599)3月、島津忠恒が伏見の屋敷で重臣の伊集院忠棟を殺害した。忠棟の子・忠真は、父の死を知って主家の島津家に戦いを挑んだ。忠恒はただちに忠真を討つべく出陣したが、容易に討ち取ることができなかった。
翌年、徳川家康の助力を得て、忠真に降伏を求めた。結果、忠真は降伏に応じたものの、忠恒は警戒を緩めなかった。慶長7年(1602)8月、忠恒は日向国野尻(宮崎県小林市)で忠真を殺害した。こうして伊集院氏は、滅亡したのである。
3.宇喜多騒動
慶長4年(1599)末頃、宇喜多氏の家中騒動が勃発した。原因は、宇喜多秀家が新参の中村氏を登用したことに対する譜代の重臣の反発、秀家の過酷な検地に対する抗議など諸説ある。結局、秀家は自力で解決できず、徳川家康の助力を得た。
騒動の結果、多数の重臣が出奔したので、宇喜多家中の弱体化が進んだ。翌年、関ヶ原合戦が勃発すると、秀家は西軍に与して出陣したが、軍勢には牢人衆が多数加わっていた。戦いでは、宇喜多軍に忠誠心が薄い牢人衆が多かったので、これが西軍の敗北の一因ともいわれている。