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【富田林市】最東端別井の北側には何があるのか。南北朝時代にあったとされるふたつの城跡を巡ってみました

奥河内から情報発信奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

すこし前に富田林最東にあるところとして、南別井を紹介しました。ここで南だけ紹介して北を無視するのはどう考えてもまずいと思いましたので、北別井地域にも何があるか探索してみました。

別井バス停は北と南の境になっている道路上にあります。

道路から先が北別井です。いったい何があるのでしょう。

南別井にはふたつの寺院と最南端に歴史の由来がわかる寅ヶ池がありましたが、北別井にはおもに城跡があるようです。

ひとつ目の城跡は別井城跡で、別名大宝寺城跡というそうです。鎌倉時代末に起きた元弘の変(1331)の時に、楠木正成が設置した城砦と伝わり、山城氏が城将となって守備したという記録があります。

別井城跡とされる場所に来ました。

予想していた通り、城跡の痕跡は何も残っていません。説明版もないことから富田林市もこの場所に城があると比定はしていない(認めていない)ようです。

ただ鎌倉末の動乱の最中にここに小さな城があり、敵方からの攻撃に備えていた武士達がいたと想像しながら眺めてみるのも楽しいです。

別井城跡からいったんメインの道に戻りました。

もうひとつ、北別井地域に残る城跡があるようなので、そちらに向かいます。

見えてきたのは北別井児童遊園地です。

中には入りませんでしたが、比較的大きな児童遊園のようです。

こちらは北別井のだんじり小屋です。地域によっては大きく名前を書いているだんじり小屋がありますが、北別井はシンプルです。

さらに北に歩いていきます。

こちらは関西電力送配電南河内変電所です。

さらに北に歩くと大きく東に道がカーブしており、北方向には田んぼの方に細い道があるだけです。

その細い道を歩いていくとかつての山城南城跡が見えてくるはずです。

山城南城址については富田林市史(外部リンク)で北朝の細川勢が南朝側であった城を攻撃し焼き払ったという記述がありました。

田代了賢はその日の軍奉行椙田(すぎた)六郎の命をうけて攻撃にむかい、北方より搦手に廻って「山城南城」の敵を追い落とし、件(くだん)の城を焼き払い

富田林市史に記載が残るものの、先ほどの北別井城跡のようにあまり期待できる城跡は無さそうです。

地図からでは正面に見える鉄塔あたりに城があったと推測されます。ここも想像の世界ですね。

ということで、北別井地域を散策してみました。

南別井地域とは全く違う雰囲気、見た目は単なる田んぼですが、かつて鎌倉末期から南北朝時代に小さな城がふたつあったかもしれない、歴史の浪漫を感じました。

北別井地区
住所:大阪府富田林市別井1・2丁目
アクセス:近鉄富田林駅からバス別井バス停から徒歩圏内

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奥河内地域文筆家(河内長野市・富田林市)

河内長野市の別名「奥河内」は、周囲を山に囲まれ3種類の日本遺産に登録されるほど、歴史文化的スポットがたくさんある地域です。それに加えて、都心である大阪市中心部に乗り換えなしで行ける複数の大手私鉄(南海・近鉄)と直結していることから、新興住宅団地が多数造成されており、地元にはおしゃれな名店や評判の良い店なども数多くあります。そして隣接する富田林市もまた、歴史文化が色濃く残る地域。また南河内地区の中核都市として、行政系施設が集まっています。これを機会に、奥河内(一部南河内含む)地域に住んでいる人たちのお役に立つ情報を提供していければと考えています。どうぞよろしくお願いします。

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