「笑いに願いを」。吉本興業・大﨑洋会長が語るこれまでとこれから。そして、島田紳助氏。
2009年から吉本興業の社長を10年務め、19年から現職となった大﨑洋会長(67)。今年4月からラジオ番組もスタートし、8月には坪田信貴さんとの共著『吉本興業の約束~エンタメの未来戦略~』も出版。コロナ禍で「笑いに願いを」という言葉に込めた思いを語りました。
「こんなことになった理由」
今日は、何を聞かれんのかなぁ…。闇営業のことかなぁ(笑)。
その当時、去年の8月に副腎のところに腫瘍ができて、それが少しずつ大きくなってきてたんです。
お医者さんから「じゃ、切りましょうか」と言われて、手術したので、8月はほとんど病院でした。だから、岡本社長には「8月は入院することになったんやけど、頼むわ」と言って任せたんです。
そこで、なぜ「頼むわ」と言ったかというと、僕なりに「なんでこんなことになったのか」という理由が分かった。だから、あとはそれをやるだけだし、そこを「頼むわ」と。
「こんなことになった理由」というのはね…、まだ言われへんかな(笑)。いや、今日は言います。
要は二つあって、一つは“反社との付き合い”。もう一つが“契約書の有無”ということ。
まず“反社との付き合い”。ここは会社としてはゼロに決まってる。創業時とか、昔の吉本興業ならいざ知らず、今はあるわけがない。
そういう歴史があったからこそ、反社の人たちの怖さも知っています。そこは誰よりも。だから、僕が社長になった時に、その手前から10年かけて、正直、身の危険も感じながらゼロにしてきました。
ただ、芸人さんが飲みに行って、声をかけられる。そして、声をかけてきた人が反社なのかどうなのか。これはね、その場では誰にも分からない。
それこそ、瞬時に「〇」「×」が分かるシステムでもあったら国民全体が安心なんやけど、向こうは向こうで普通にご飯も食べに行くやろうし。会う確率はどこまでいってもゼロにはならない。
ここだけはマスコミも、政治家も、誰も分からない。その中で、不幸にもそういうことがあったとしたら「分かった時点で反省してすぐに止める」。これしか方策がないんです。
ただ、一部マスコミの報道が“吉本まつり”みたいにしてしまった。正直、そういう部分も多々あったと思います。
本来、そこに対して僕がどうのこうの言える立場ではないんですけど、ジャーナリズムを志した人たちが初心に戻って、きちんと自分の目で、自分の足で事実を取材する。それさえやってくれていれば、こんなことにはなってなかったんじゃないか。それは思います。
ただ、それを正面切って、声高にああだこうだ言ったところで、しょうがないことかなとも思いますしね。だから、ラジオやトークショーという場で折に触れ言う。あとはうまく紙のメディアにも出せたらエエんかなという思いもあって、今回の本にもつながりました。
もう一つ、契約書がないという話。これがひどい話だとテレビで弁護士さんにいろいろと言われたりもしたんですけど、果たしてそうなのか。
吉本で言うと6000人のタレントさんと話をする時に、一律の契約書で済むわけはないんです。
6000人のタレントには、様々な事情があって、それぞれの仕事の仕方がある。全部一律の契約書という形でやっていくのは無理です。契約書云々だけでやるには、費用対効果が悪すぎる。
例えば、半年後に「キングオブコント」で優勝して、ものすごく売れたとする。ギャラも何倍にも跳ね上がった。
そうなったら、それまでの契約書の歩合が適正なのか、また別の形にしようかとか、その都度、考えていくわけです。
去年も6000人の芸人さん全員と向き合ってヒアリングをしました。吉本の新しい契約書の概念、みんなで編み出して、いろいろ考えたんやけど、結果、99%くらいの芸人さんは「契約書を作らず、そのままでいいです」となりました。
ただ、これだけ世間を騒がせたんやし“所属覚書”というのは交わしておきましょうと。その上で、話し合って芸人さんが吉本を離れるのも自由やし、逆に、吉本側から芸人さんに出てもらうこともあるかもしれない。
芸人さんに合わせてフレキシブルに対応しながらも、ただ、ベースとして、所属覚書だけはしっかりとやっておきましょうとなったんです。そうやって、多くの部分はこれまで通りを継続しつつも、再度、契約をしっかりと見つめ直しました。
島田紳助という存在
今回の本で、そういう部分をナチュラルに説明できたらとも思いましたし、そもそもの話としては、文藝春秋さんから「ビジネス書を出しませんか」というお話をいただいたんです。
ただ、ビジネス書というキャラでもないし、そんなん僕はよう出さんし、申し訳ないけど、それは無理ですと。ただ、せっかくお声がけをいただいたんだから、何か他のやり方がないか考えてみようと。
そこで『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』の坪田君と知り合いまして。
言えば、学年ビリの女の子の偏差値を40上げて慶應大学に現役合格させた人なので、僕みたいな“ビリじいさん”が1年間で成長できたらいいなと思って(笑)。
4月から坪田君とKBS京都でラジオをすることにもなったし、二人して自然とラジオでしゃべっていったことがうまく活字になるならば、これは一石三鳥にもなるのかなと思って。
あとね、去年の騒動があって、世間の人に何か発信というか、会社自体のことを分かっていただかなくちゃいけない。その思いもやっぱりありました。
かといって、記者会見というのもなんだかなぁという。何か問題やトラブルがあったから説明するというのではなく、日々の中で、そういう部分も語れたらなと。以上のようなことが本を出した理由です。発売までの理由、ながっ!(笑)
本の表紙の“オビ”に島田紳助さんからの言葉をもらっています。どっちから言いだしたものでもないんですけど、文藝春秋の人もいいですよねとなりまして。
僕が紳ちゃんに直接言って書いてもらったら、また別の意味が出てきてもナニなので、文藝春秋の人から普通の手続きを踏んでやってもらいました。
大﨑洋と島田紳助の信頼関係
2012年の1月、吉本の100周年の企画を発表する新春会見で「もし、将来、世の中から許されることがあるならば、また島田紳助さんに戻ってもらいたい」と言いました。
翌日の新聞には100周年の100の字もなくて「吉本の大﨑が『紳助に戻ってきてもらいたい』と言った」となってました。
「世間様にお許しを願うことができるならば」という前置きをした上で言ったつもりやったんやけど、大変な騒ぎになりました。
でも、僕としたら、その時に言ったことと全く変わってません。それどころか、お互いに歳も取ってくるし、元気な時なんて少なくなってくるから、思いは強くなっています。
今でも年に3回くらいは一緒にゴルフをするんですけど、その度に「また、一緒にやろうや」とは言ってます。ただ、彼は「いや、大﨑さん、もうエエねん。今、楽しいし」と言いますけど。
というのもね、紳ちゃんと朝に会って、ゴルフをして、昼飯を食べて、またゴルフして。終わって「またな」と言うまで、ずっと笑いっぱなしです。
今でもね、やっぱり面白いと思うし、あんなヤツはもう出てこないと思います。ホンマは身内同士で誉めたらアカンけど、島田紳助という人と同じ時代にいて、あのおしゃべりが聞ける幸せ。これはあると思っています。純粋に才能を見て。
ただ、僕がそう思うことと、戻れるということ、戻るということには、隔たりがあることも分かります。具体的に「世間がこうなったら戻れる」なんてこともないと思いますし。
いろいろな不確定要素が重なる中で、可能性がゼロなんてことは世の中にはない。世の中の空気もですし、もちろん、戻る戻らないの意思決定は、僕なんかではなく本人が決めることだというのが大前提ですし。
昔の話ですけど、僕が大阪で紳ちゃんとかダウンタウンらで番組を作ってる時に、紳ちゃんから「ギャラ、いくらくれんの?」と聞かれたりもしてました。
「紳ちゃん、いくらいるの?」「いやいや、そっちが先に言って」となって、お互いが紙に額を書いて「せーの!」で見せ合いしようかと。
1、2の3!で見せ合いしたら、オレの方が多かった(笑)。それが大﨑洋と長谷川公彦、すなわち島田紳助さんとの信頼やろうし。契約書ではなく、本質的な部分としては、そうやってこれまでやってきました。そこは第三者に分かってもらうところじゃないし、僕と紳ちゃんが分かってたらエエことやと思っています。
“家族”の意味
信頼。ここの部分は、去年から吉本に関してもよく使われてきた“家族”という言葉に密接に関わっていると思います。家族という言い方、僕はすごく好きでもあるし、すごく好きじゃない表現でもあるんです。
どういうことか。家族という唯一無二の帰る場所。その重さみたいなものが宿っている言葉だし、そこは掛け値なしに尊い部分だと思います。
ただ「家族なんやから!」と言ってしまうと、それで全てを収めてしまう力もある。もっと奥まで進んで、本当の問題点とか、大事なことをちゃんと議論せずに、家族という言葉のパワーだけで済ませてしまうことにもつながる。家族という言葉は、両方の面を持っている。だから、好きやし、嫌いやし「家族やから」で終わらせてはいけないとは思っています。
座右の銘?なるほど…。それがね、ないんです(笑)。ないんやけど、ないねんけど、1週間ほど前に思いついたんです(笑)。
「笑いに願いを」
ま、お察しの通り「星に願いを」をパクッただけのことなんやけど(笑)。
でも、42年、毎日毎日芸人さんと遊ぶように働いてきて、実際、楽しかった。そうやって一緒にやってきた中で、今になって思いついた言葉やから。それはそれで意味があるんやろうなとも思ってるんです。我が言葉ながら。
…ちょっと、オレ、今日、めちゃめちゃ真剣に答えてるやん。思ってたんとちゃうわ(笑)。
■大﨑洋(おおさき・ひろし)
1953年生まれ。大阪府出身。関西大学社会学部卒業。78年4月、吉本興業株式会社入社。多くのタレントのマネージャーを担当。80年、東京事務所開設時に東京勤務となる。86年、プロデューサーとして「心斎橋筋2丁目劇場」を立ち上げ、多くの人気タレントを輩出。 その後、音楽・出版事業、スポーツマネジメント事業、デジタルコンテンツ事業、映画事業など、数々の新規事業を立ち上げる。2001年に取締役、その後、専務取締役、取締役副社長を経て、07年に代表取締役副社長、09年、代表取締役社長に就任。19年、代表取締役会長に就任した。今年4月からKBS京都ラジオ「大﨑洋と坪田信貴のらぶゆ~きょうと」がスタート。8月には「学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」の著者で「坪田塾」塾長・坪田信貴氏との共著「吉本興業の約束~エンタメの未来戦略~」を上梓した。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】