足利尊氏の人生3つのターニングポイントと逆賊説とは?
ジャンプ漫画『逃げ上手の若君』がアニメ放送されています。この作品では北条時行を題材に、彼の生きた南北朝時代が描かれています。この作品では、おそらくラスボスになるであろう足利尊氏が登場します。
室町幕府の初代将軍として有名な尊氏ですが、戦前まで彼は逆賊として扱われていました。「幕府の創設者なのになぜ?」と思われる人もいるでしょうが、幕府設立までの過程で後醍醐天皇に反旗を翻したことが要因だと言われています。
そこで今回は足利尊氏の足跡をたどり、逆賊説を紹介します。
足利尊氏の三つのターニングポイント
尊氏は生涯で三つのターニングポイントがありました。
- 一回目:鎌倉幕府の滅亡
- 二回目:建武政権からの離脱
- 三回目:観応の擾乱
鎌倉幕府の滅亡
執権・北条高時の時代に政権を奪取するべく後醍醐天皇が討幕のために兵をあげるも敗れ、隠岐へ島流しになります。護良親王が討幕を引き継ぐと天皇も隠岐から脱出。再度討幕軍を鎮圧するために足利尊氏は、幕府より討伐を命じられ京へ向け出陣します。
ところが、一転して後醍醐天皇に味方することを決め、周辺諸侯に声をかけて京の幕府機関である六波羅探題を滅ぼしました。
時を同じくして関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を制圧します。北条高時以下一族を自刃させて鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。
『太平記』では討伐命令が出ていた時、尊氏は父の喪中で参陣辞退を幕府に申し出ていたのに許されず反旗を翻したと書かれています。また、政権や北条氏の仕打ちに不満もあった様なので、つもりに積もっていたのかもしれません。
建武政権からの離脱
鎌倉幕府が滅び後醍醐天皇による親政が始まりますが、御家人軽視の政策に諸侯は不満を募らせます。政権発足の第一功労者の尊氏も矢面に立って御家人たちをフォローしますが、自分たちの理想の政治ではないことに不満はあったようです。
そんな時に北条高時の遺児・時行が鎌倉を目指し挙兵すると流れが一変しました。
当時の鎌倉は尊氏の弟・足利直義が治めており、時行軍を迎え撃ちますが敗北。京にいた尊氏は鎌倉鎮圧の為に「征夷大将軍の任命」と「恩賞を与える権利」を求めますが、天皇に却下されます。これに対して尊氏は許可なしで出兵し鎌倉を制圧、その後は独自に恩賞を与え始めました。
この時すでに【新しい武家政権の発足】の構想が弟・直義にあったと言われています。尊氏自身は御家人と天皇の板挟みの煮え切らない態度で、後醍醐天皇が尊氏討伐の軍を差し向けても尊氏は寺に引きこもっています。
代わりに直義が迎え撃ちますが、苦戦を知った尊氏はあっさりと出陣し兄弟で京を制圧しました。ところが、この事態に東北を治める公家・北畠顕家が尊氏討伐に参陣。公家なのにやたらと強い北畠顕家相手に足利兄弟は都を追われることになりました。
こうして鎌倉幕府を倒す利害が一致した後醍醐天皇と足利尊氏でしたが、お互いの政治ビジョンの違いで結果的に敵対することになります。
室町幕府開設と南北朝の動乱
都を追われた足利尊氏は後醍醐天皇から朝敵扱いにされました。その状況を打破するため尊氏たちがとったのが光明天皇を擁立する事。周辺の御家人を味方につけて、楠木正成や新田義貞を破り京を奪還します。
光明天皇が即位する状況を作り上げると、征夷大将軍に任ぜられ新たな武家政権(室町幕府)を作りました。
一方で後醍醐天皇は自身の正当性を主張し、吉野へ逃れて朝廷を開き南北朝時代に突入します。
観応の擾乱
室町幕府の発足当初は直義が政務を行いましたが、執事・高師直と政策をめぐり対立。その過程で直義は追放され、観応の擾乱が勃発します。
出奔した直義は再起を図るために自身の派閥の御家人たちを取り込み勢力を拡大。京を制圧し義詮を追放する成果をあげました。
そんな状況に尊氏は高師直兄弟を出家させる条件で和睦を申し入れ、義詮の補佐役として直義が政務に復帰します。
一方で高師直兄弟は尊氏に捨てられる形で追放され護送中に殺害されました。
尊氏的にはこの争いはあくまでも「直義vs高師直一族」だと言わんばかりの節があったのか、尊氏の態度は何事もなかったような振舞だったそうです。
その後、一時的な平穏を取り戻すも反直義派が静まる事なく尊氏と直義の対立が避けられないものに。そして、尊氏による直義派が一掃される中、1352年に直義は急死しました。太平記では尊氏による毒殺と書かれていますが、本当のところはわかりません。
尊氏は1358年に合戦で受けた傷が原因で京で享年54歳で死去しています。
足利尊氏はどうして逆賊なのか?
江戸時代の水戸光圀による【水戸学】では、皇統の正統性を重視しており、正統な天皇である後醍醐天皇を追放した足利尊氏は逆賊として書いています。とくに明治の「南朝・北朝どっちが正統か?」論争の結果、南朝が正統と決まった事で後醍醐天皇を裏切った尊氏は逆賊とされるようになりました。
自由な尊氏論は封じられ、昭和9年に大臣だった政治家が足利尊氏を再評価したことにより、野党から批判材料にされ辞任にまで追い込まれています。
これが要因となって足利尊氏が逆賊となっているようなのですが、南北朝時代の歴史書の評価には『戦場での勇猛さ』『敵方への寛容さ』『部下への気前の良さ』という3つの徳があると書かれています。
気前がよすぎて部下たちの恩賞を惜しまなかった事が、苦境に立たされても御家人たちの支持につながったのだと思います。室町幕府が終始不安定な政権だったのは、尊氏が恩賞として土地を渡しすぎて直轄領が少ない事が原因だと言う見方もあります。
また、戦場での勇猛さでは新田義貞と楠木正成を撃破している事で歴史が証明しています。一部では戦国大名として君臨して、直義のような優秀な右腕がいれば織田信長や武田信玄・上杉謙信に負けないくらいの武将として活躍できたのではとささやかれています。