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明治時代の京都観光① ~ 日本最初の小学校を巡る ~

山村純也京都の魅力を発信する「らくたび」代表
京都市学校歴史博物館の入口(※以下の写真も全て著者が撮影)

 京都は日本最初の小学校が設立された場所として知られているが、その小学校は「番組小学校」と呼ばれた。

 その設立構想は西谷淇水(にしたにきすい)という寺子屋経営者(教育家)が慶応3(1867)年から奉行所に、維新後は新政府に公立学校の設置を建白したことに始まる。

 京都府はこれを採用して政策として組み、初代府知事の長谷信篤、二代目府知事の槇村正直が、寺子屋に代わる新しい教育施設を「町組ごとに創設する」計画を立てた。さらにその施設は町組会所としても使用することで、建設の費用は住民が負担するという仕組みを作ったのだ。ちなみに各町組には「番号を付した」ことから番組小学校と呼ばれた。

 これらは日本初の学区制小学校であり、明治政府が明治5年に学校制度創設を行うが、それに3年も先んじて行ったということになる。

 そんな歴史ある番組小学校の歴史をみるとしたらまずは「京都市学校歴史博物館」(平成10年に開館、御幸町仏光寺下ル)へ。開智小学校の校舎を利用して開設された。明治2年に創設された64の番組小学校を中心に、京都の教育の歴史を学校文化財(美術工芸品)と歴史資料によって紹介している。

正門を潜り、グランドを抜けると博物館の入口にたどり着く
正門を潜り、グランドを抜けると博物館の入口にたどり着く

 明治2年に64校が誕生した中で、一番早かったのが上京第二十七番組小学校。その場所には「日本最初小学校柳池校」の石標がある。

鳩居堂の7代目主人の熊谷直孝が設立に尽力した
鳩居堂の7代目主人の熊谷直孝が設立に尽力した

 明治2年5月21日に富小路通御池角に造られて開校式が挙行され、明治6年現在地に新築移転し、柳池小学校となり、昭和22年の新学制施行によって柳池中学校となり、現在に至っている。

 また中京区室町蛸薬師上ルにある明倫小学校は、明治2年に下京三番組小学校として開校し、平成5年に124年の歴史をもって閉校した。その後はその場所に京都芸術センターが開設され、それに伴う改修によって、その姿が昭和6年の大改築時のまま残っている。

祇園祭の時には北側に山伏山が建つ
祇園祭の時には北側に山伏山が建つ

 当時最先端の鉄骨建築で、赤みを帯びたクリーム色の外壁と、スぺイン風屋根瓦のオレンジ色が温かみのある雰囲気を醸し出している。面白いのはこの学区に祇園祭の山鉾町の多くが含まれているため、建物の正面は祇園祭の山鉾を模しているという点。

正門を入ってすぐの正面が山鉾をイメージ
正門を入ってすぐの正面が山鉾をイメージ

 内部は自由に入ることができ、書室や喫茶スぺース、廊下を巡るだけでも、明倫小学校の雰囲気を充分に味わうことができる。

館内には喫茶スペースとして、前田珈琲明倫店が入っている
館内には喫茶スペースとして、前田珈琲明倫店が入っている

 最後に蛸薬師通河原町東入にあった立誠小学校について。京都の繁華街、木屋町に面して造られた。かつての土佐藩邸があった場所になる。しかし統廃合で平成5年に閉校になった。

 幸いなことに、昭和3年に建てられたアーチ型の玄関やレトロな装飾を施した外観が特徴的な鉄筋コンクリート造校舎が保存され、その後、地域の文化施設として使われてきたが、昨年ホテルとして再オープンした。

高瀬川を越えたところにある学校の入口がホテルの入口
高瀬川を越えたところにある学校の入口がホテルの入口

 面白いのは、この事業の一環として造られた「立誠図書館」(立誠小学校の図書館が前身)がホテル内に設置されていること。地域文化を発信する施設として、今後も愛されていくだろう。

ザ・ゲートホテル京都高瀬川と地域が協力して現在の形に
ザ・ゲートホテル京都高瀬川と地域が協力して現在の形に

京都の魅力を発信する「らくたび」代表

1973年、京都生まれ。立命館大学在学中にプロの観光ガイドとして京都・奈良を案内。卒業後は大手旅行会社に勤務。2006年4月、京都観光を総合的にプロデュースする「(株)らくたび」を創立。以後、ツアープロデューサー、ツアー講師として活躍。2007年3月に「らくたび文庫」を創刊。現在、NHK文化センター、大阪シティーアカデミー、ウェーブ産経、サンケイリビング新聞社の講師、京都商工会議所の京都検定講師も務める。著書・執筆に『幕末 龍馬の京都案内』、『京都・国宝の美』、『見る 歩く 学ぶ 京都御所』(コトコト)など。京都検定1級取得。

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