延長30回どころか、45回を戦った軟式球界のレジェンド!
いいですか、なにしろ延長45回なのだ。しかも、サスペンデッドゲームではなく「通し」でのもの。1983年9月20日、茨城県営水戸球場。第38回天皇賜杯全日本軟式野球大会決勝で、それは起きた。
宮崎の田中病院・池内雄一郎投手と、東京のライト工業・小山良春投手の投げ合いは、延々とゼロ行進。開始後1時間40分では延長に突入し、2試合分の18回が終わっても、3試合分の27回が終わっても0対0のままだ。35回表にライト工業が1点をもぎ取ってやっと終了かと思ったら、その裏、田中病院も執念で追いつく。ライト工業は36回から二番手・大塚喜代美投手がマウンドに立つが、田中病院・池内も譲らず、さらに0が続いた。
試合が決まったのは、日没が迫り、このまま同点なら再試合もやむなし……という45回だ。ライト工業が1点を勝ち越し、その裏の田中病院の粘りも届かず、ついに試合終了となったわけだ。2対1、試合開始は8時50分、終了は17時15分で試合時間8時間25分。9回のゲームならなんと5試合分だから、それも当然か。従来の大会記録・39回を大きく更新するミラクル記録に、スポーツ紙2紙が大きく紙面を割いた。それも、1面。軟式球界では、きわめて異例のことだった。
というのもこの日はたまたま、天候不順でプロ野球が中止になり、
「なにか、水戸でとんでもない試合をやっているらしいぞ」
と、めざといメディアが駆けつけたらしい。もっとも翌朝の記事では、45回を完投した田中病院・池内の投球数がそれぞれ522球、516球と異なっているのだが(ちなみに公式記録では522球)。混乱ぶりが目に見える。
当時は騒がれました。年末には『11PM』にも出よったです
そもそも、今回の30回サスペンデッドもしかり、なぜ軟式野球ではそこまで点が入らないのか。ボールが軟らかいから硬式に比べて飛距離が出ないし、打球のスピードが鈍いため、内野手の間を抜けるヒットもきわめて少ない。また、スイングスピードが速いほど、バットに当たった瞬間にボールがへこむので、硬式ならジャストミートの打球がポップフライになる。要するに、ヒットはなかなか期待できず、現にこの延長45回でも、両軍のヒット数は合計35にすぎないのだ。それでは連打など期待できず、得点パターンといえば無死の走者がとにかく二盗を試み、後続でなんとか一死三塁に持ち込み、そこから内野ゴロでもなんでも本塁を狙う、というもの。レベルが上がれば上がるほど、この戦法が徹底されるのだ。
この、延長45回の当事者を、15年ほど前に取材したことがある。田中病院・池内さんは、PL学園から社会人のキャタピラー三菱、休部に伴って故郷の宮崎に戻り、軟式に転じていた。
「そうですねぇ、当時はよう騒がれました。試合の翌日はテレビの取材、地元に帰ったらまた地元の新聞やテレビの取材、年末には『11PM』にも出よったです。それはともかく、よう投げたいうんが正直な感想ですね」
この年にライト工業の監督になっていた美濃部敏夫さんによると、
「選手たちはもう、ベンチと守備位置の往復だけでした(笑)。私は、攻撃のときは三塁コーチャーズボックスにいて、守備のときにベンチに戻ると、不思議に相手の走者が出る。ゲンが悪い、ということで、相手の攻撃中はベンチから出て、裏でたばこを吸うしかありませんでした」
結局、軟式球界の強豪・ライト工業が3回目の優勝を遂げたわけだが、これには後日談がある。あまりにも点が入らない、軟式野球の特性。これを改善するため、ボールそのものを硬くして、反発力をアップさせたのだ(85年)。さらに06年には、かつての野球少年には懐かしい表面のディンプルがなくなり、さらに飛距離のアップが図られている。それでも……今回のような、延々30回のゼロ行進なのだが。
この週末、もしあなたが草野球でもやるのなら、しみじみとボールの表面をながめてみて下さい。