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【光る君へ】なぜ悲劇の女性・定子が「皇后」になるのが問題なのか?「一帝二后」への布石とは?(家系図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

NHK大河ドラマ『光る君へ』。世界最古の女性文学『源氏物語』の作者・紫式部(まひろ・演:吉高由里子)と、平安時代に藤原氏全盛を築いた藤原道長(演:柄本佑)とのラブストーリー。

さて、今日は周りをざわつかせた道長の兄・道隆(演:井浦新)の横暴ぶりについて。実資(さねすけ・演:ロバート秋山)によれば66名も自分の息のかかった者を新しく任官したとか。(ここ、明らかに「数えてたのか!」という突っ込み待ちですね)

一番のポイントは、道隆が自分の娘・定子(さだこ・演:高畑充希)を、強引に中宮(皇后の別称)にしたこと。

ドラマの中で当代の天皇は一条天皇(演:塩野瑛久)です。現代のわたしたちの感覚では、天皇の妃である定子が中宮に立つのは、ごく普通のことのように感じます。

それなのに、道長は「中宮と皇后が並び立つことは前例がございません」と言い、会議では全員が「ありえぬ」と異口同音。

朝ドラ『虎に翼』の寅子なら「はて?」と言いそうな展開ですが、道長や実資が「ありえぬ」と言ったのには理由があります。

理由とは、チコちゃん風にいえば「すでに3人いるから~」。さらに「はて?」となりますね。

また、ここで定子が中宮になることで、この先さらに悲劇的な展開となるのですが、それはまたおいおい。今日はその理由(定義の違い)とのちの展開についても少しだけ解説します。

◆ついに摂政になった長兄・道隆の専横ぶりに唖然!

◎本題に入る前に少しおさらい

前回、父の兼家が闇落ちした理由(関連記事:「【光る君へ】兼家が「闇落ち」した理由。兄弟仲が悪いのはお家芸?兄との壮絶なバトルとは(家系図)」2024年4月7日)など書いたら、兼家は兄弟にとんでもない爆弾を落として薨去

次男・道兼(演:玉置玲央)に「この先も一族の汚れ役をやれ。それが嫌なら出ていけ」とは、あまりにあまりな言いよう。その上、道兼は「父上の喪にも服さないとは」と奥方(藤原繁子・演:山田キヌヲ)に三下り半を突き付けられます。

「修羅の道」を行く弟(道兼)とは裏腹に、この世が春の「花盛りの道」を行く長兄の道隆。父以上の独裁を極め「闇」に落ちる姿は、雅で美しいだけに戦々恐々としましたね。

今まであまり深く描かれず、捉えどころのなかった道隆。この先の彼の「闇」を際立たせるために、むしろ今まで道隆の存在感を薄めに描いてきたようにも見えます。

◆なぜ定子は「中宮になれない」とされたのか?

◎家系図と3人の后妃たち

お約束の家系図をどうぞ。

ポイントはピンクで囲った方々。歴代の天皇の后妃たちです。

最初に問題となった「なぜ定子が中宮になれないか」といえば、正しい答えは当時の「皇后」の定義が現代とは異なるから

◎律令が定める「三后」について

当時は、律令が定める「三后」という、現代とは異なる決まりがありました。

皇后(中宮)=天皇の嫡妻
皇太后=天皇の母(先帝の皇后)
太皇太后=天皇の祖母(先々帝の皇后)

前代からの「三后」が存命中は、新しく皇后(中宮)を立てることができないのです。

もう少し詳しく見ていきましょう。

◆現代の「后位」と明治以前の「三后」の違い

◎現代の「后位」ではどうなる?

明治維新後、「后位」は以下のようになりました。

皇后=当代の天皇の嫡妻
皇太后=先帝の皇后
太皇太后=先々帝の皇后

現代では新しく天皇が即位すると、その妻が皇后となります。自動的にそれまでの皇后(天皇の母)は皇太后となり、皇太后は太皇太后へと順に繰り上がっていきます。

現在の皇后は当代の天皇妃である雅子さま。特例的に美智子さまは皇太后ではなく上皇后です。上皇陛下が天皇に即位された平成のはじめには、皇后は美智子さま、皇太后は良子(ながこ)さま(香淳皇后)でした。

現代のように天皇が死去もしくは晩年まで在位する場合、太皇太后まで「三后」が埋まることは、通常ありません。実際に太皇太后がいたのは1200年頃(鎌倉時代)までさかのぼります。

◎昔は「空き」がないと皇后になれなかった

現代はまず、天皇の即位に際して皇后が立ち、前皇后が皇太后へ繰り上がるイメージですが、ドラマ当時は、「三后のうち誰かが亡くなって空いた席があれば入れる」という決まりだったのです。

そのため、現代とは異なり、「皇后(中宮)」が当代の天皇の妻とは限りませんでした。

また、当時の天皇はのきなみ在位が短命でした。冷泉天皇や花山天皇(演:本郷奏多)などは2年、割と長めの一条天皇で25年、円融天皇(演:坂東巳之助)で15年ほど。

以上の理由から、66代・一条天皇の代の初期には先代どころか4代前の中宮まで3人とも元気に存命していたのです。(※先代の65代・花山天皇には中宮はいません)

中宮=64代・円融天皇中宮:藤原遵子(のぶこ・演:中村静香)
皇太后=66代・一条天皇母(64代・円融天皇女御):藤原詮子(あきこ・演:吉田羊)
太皇太后=63代・冷泉天皇中宮:昌子(まさこ)内親王

そんなわけで、定子が中宮になれなかった理由は、「(すでに后妃が3人いて)席が空いていなかったから」なのでした。

「すでに3人いるから」本来、定子は中宮にはなれませんでした
「すでに3人いるから」本来、定子は中宮にはなれませんでした

※余談
皇太后は、もともと「天皇の母」かつ「先帝の皇后」でした。そのうちどちらかを満たせばOKとなります。一条天皇の母で道長の姉である詮子は、中宮を経ずに皇太后になりました。円融天皇中宮の遵子は子を産んでいませんが、のちに皇太后、太皇太后になっています。

◆道隆の栄華が長く続けばうまく行ったはずの「たくらみ」

◎中宮と皇后を両方立てればよいのでは?

そのような理由で定子を中宮にできず、道隆は悩みます。絶対に自分の家から天皇を出さねば。そのためには何が何でも定子を中宮にせねば!彼は考えに考え抜きました。

そんなわけで、990年に道隆が提案して批判を浴びた「四后並立」

中宮=66代・一条天皇中宮:藤原定子
皇后=64代・円融天皇中宮:藤原遵子
皇太后=66代・一条天皇母(64代・円融天皇女御):藤原詮子
太皇太后=63代・冷泉天皇中宮:昌子内親王

「遵子さまに『皇后』に、定子さまに『中宮』になっていただく」。実際には中宮も皇后もほぼ同意ですが、違う名称なので、両方おいてはどうか、というわけです。

いわばへ理屈ですが、一条天皇に「朕(ちん)は定子を中宮とする」と言わせてしまえばこっちのもの。天皇の言葉は「勅(みことのり)(勅語)」と呼ばれ「絶対的な効力」となります。

道隆は「我ながらうまいこと考えた!」とほくそ笑んだことでしょう。まさかこの妙案が自分の一門の首を絞めることになろうとは…。

と、ここから先は、ドラマの「ネタバレ」になりますので、先を知りたくない方は読まないでくださいね!

こうして中宮と皇后が並立という「前代未聞」の事態に
こうして中宮と皇后が並立という「前代未聞」の事態に

◎こんなはずじゃなかった…道隆の急死

前回の最後に、まひろとさわの見た河原の遺体。この年(995年)は疫病(赤斑瘡《あかもがさ:はしか》)が猛威を振るったことを示唆して終わりました。疫病は貴族とて無関係ではありません。この年公卿上位8人のうち、6人までが亡くなったとされます。

道隆もこの年43歳の若さで急死(彼の死因は疫病ではなく飲水病《糖尿病》だといわれます)。跡を継いだ道兼も疫病に倒れ、道長権力の座が転がり込むのです。

◆道隆の「悪だくみ」をうまいこと利用した道長

◎「四后」はその後どうなったのか?

道隆がゴリ押しした「四后並立」はその後どうなったのでしょうか。10年ほどのうちに詮子、遵子、定子が出家し、昌子内親王が崩御します。

中宮=66代・一条天皇中宮:藤原定子(出家)
皇太后=64代・円融天皇中宮:藤原遵子(出家)

女院(東三条院)=66代・一条天皇母(64代・円融天皇女御):藤原詮子(出家し皇太后辞職)

詮子は出家と同時に皇太后宮職も辞したため、1000年には中宮と皇太后の二后しかいませんでした。

そこへ、満を持して道長が自らの掌中の珠・彰子(あきこ・演:見上愛)を入内させます。道長としては、当然彰子を中宮にしたい。

でも、今回は定子のときのような「定員オーバー」とはわけが違います。定員は空いていても、「一条天皇の中宮」の席は空いていないのです。

天皇一人に二人の皇后が立つ「一帝二后」というのは、まさに「前例のない」できごとでした。

◎彰子立后のために行成の考えた理屈とは

悩んだ道長は、彼の参謀として大活躍した蔵人頭・藤原行成(演:渡辺大知)に相談。

行成は、以下の理由で周りを納得させて、彰子を中宮にすることに成功します。

・存命の后妃が3人とも(東三条院含む)出家しているため、中宮の職務(神事)を勤められない
・すでに「皇后・中宮」二后の前例がある(道隆のゴリ押しを利用)

行成、まひろへのラブレターを書くのに協力するだけでなく、いろいろ使える男なのですね!

こうして彰子は中宮になりました(1000年)。

中宮=66代・一条天皇中宮:藤原彰子
皇后=66代・一条天皇中宮:藤原定子(出家)
皇太后=64代・円融天皇中宮:藤原遵子(出家)

女院(東三条院)=66代・一条天皇母(64代・円融天皇女御):藤原詮子(出家し皇太后辞職)

しかしこれも一瞬の出来事で、翌1001年から1002年にかけて皇后・定子女院・詮子が立て続けに崩御。中宮と皇太后だけが遺されました。「一帝二后」は解消されたのです。

◆史上初「一家立三后」を成し遂げた道長

◎長女・次女・三女が「三后」を占めた望月の夜

道長は、三条天皇に次女・妍子(きよこ)、後一条天皇に三女・威子(たけこ)を次々入内させて立后しました。彰子が太皇太后になるころには、三后をすべて道長の娘が占めるという離れ業を成し遂げます。

中宮=68代・後一条天皇中宮:藤原威子(道長三女)
皇太后=67代・三条天皇中宮:藤原妍子(道長次女)
太皇太后=66代・一条天皇中宮 / 68代・69代天皇母:藤原彰子(道長長女)

ピンクの三后を入れ替えた家系図を再掲示。

1018年、威子の立后の日に道長が詠んだとされるのが、あの有名な望月の歌

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この歌の意味はおおよそ以下の通り(諸説ありますが、ここでは省きます)。

「この世はすべて自分の思い通り、自分のためにあるようなものだ。まるで満月のように何一つ欠けることなく満足にそろっている」

◎望月が欠け始めるきっかけとなった「四女の死」

この歌は詠んだ本人である道長の日記ではなく、ドラマ内で何度も登場する藤原実資の「日記(小右記)」に書かれたことで後世に伝わっています。

「望月」が欠けはじめるまでは意外と短く、道長一門の栄華も長くはありませんでした。

道長・倫子夫妻の三女までは中宮になりますが、四女・嬉子(よしこ)(家系図淡ピンク)は中宮になれませんでした。

嬉子は敦良親王(のちの後朱雀天皇)の東宮妃となり親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産みます。しかし、嬉子は出産の2日後、疫病(赤斑瘡《あかもがさ:はしか》)19歳の若さで薨去するのです。

彼女の産んだ後冷泉天皇には世継ぎができませんでした。道長一門の権勢の陰りが見え始めたのは、嬉子の死がきっかけだったといわれます。

兄たちが「疾病」「早世」したことではじまった道長の栄華は皮肉にも、同じ「疫病」による「娘の死」がきっかけで終わることとなるのです。

(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)

主要参考文献

フェミニスト紫式部の生活と意見 ~現代用語で読み解く「源氏物語」~(奥山景布子)(集英社)

ワケあり式部とおつかれ道長(奥山景布子)(中央公論新社)

紫式部日記(山本淳子編)(角川ソフィア文庫)

枕草子(角川書店編)(角川ソフィア文庫)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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